それでも恋するノリコ

恋愛ブログではありません!

忘れられないこと

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忘れられないことがある。

 

私が17歳くらいだったとき、医学部専門予備校に通ってたんだけどそこで友達になったHちゃんという女の子が

 

「私は『話し合えば誰でも分かり合える』って思ってるの!」

 

と言ったそのセリフ。10年間ずーーーーっと頭に残ってる。

 

そのときはそうかなぁ、まあ根気のある人ならそうなのかもしれないな、って思ったんだけどそれから10年間いろんな局面があって、そのたびにこの言葉を思い出すんだけど最終的にこの答えはNOなんじゃないか?って思っていて。

 

話し合うっていうか、自分の考えをどんなに一生懸命伝えようと思っても伝わらなかったときってたくさんあるし、逆に相手の話をどう受け取り方を工夫しても自分の中に落ちてこなかったこともたくさんある。

 

それってそれぞれが何十年かの人生の中でずっと育ててきた価値観がそもそも違ったりすると同じ前提のもとで話せないし、多様性をどこまで受け入れるキャパシティがあるのかという話にもなってきて

 

やっぱり根気だけの問題ではないでしょう。と、私は思う。

 

もちろんそのあたりも人それぞれの考え方なんだけど。私が気になるのはいまだにその子が同じ考えを持っているのかということ。その子がこの10年間で考えを変えたのか、それともいまだに「話し合えば誰でも分かり合える」と思っているのか。

 

もし後者だったら、きっと私は嬉しい。私が人生において早々に諦めたことを、まだHちゃんが掴んでいてくれたらいいなあって。

(ネタバレ注意)君の名は。を見たら鬱になってデパスの世話になったはなし

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今日「君の名は。」を見た。ものすっごい恐怖を感じ、そして久しぶりに抑うつ状態になってしまった。

 

同じような感想を抱く人はいないものかと、ツイッターやグーグルで「君の名は 鬱」と検索してもそれらしきものは見当たらなくて

 

今私は心底ひとりぼっちの気分だ。

 

 

私は、自分なりに自分の恐怖感の理由を考えてみた。そしたらあっさり分析できた。(話が早い)

 

 

それは一言でいうと、「彼ら(主人公たち)は片割れに出会えたのに私は一生出会えないと本能レベルで感じた」から。

 

 

私が意図せず死ぬとき、誰も時空を飛んで助けにはこないし、道を歩いていても私を見出してハッとしてくれる人なんていない。私をあんなふうに求めて山道を走ってくる人はいない。私のために村の運命を変えてくれる人なんていない。ということが妙に怖かった。

 

 

だってヒロイン死ぬんだもん…。死んだのに、愛の力でそれを回避したんだもん。でももし私が今隕石にぶつかって死んだら、誰も助けにこないじゃん。

 

 

なんかあの映画は、見ると結婚したくなると言われているらしい。いいなあ、みんな相手がいてw

私はあの映画の後半からもう「私は今隕石が落ちてきたら独りで死ぬんだ」という考えに支配されてそのあと2時間ほどリアルに吐き気と戦ったよ(だからなに)

 

 

でもこの話をしたら、「それはいくらなんでも見方が歪みすぎ」と言われた。確かに、私のこの感想ってストーリーとかあんま関係なくて、なんで入れ替わったのかとか、どうして相手が瀧くんだったのか、あの先輩はなんだったのかとかそういうのどうでもよくて、ただ

 

「圧倒的なつながりを感じられる運命の人的な存在」が自分には一生やってこないという事実だけ衝撃的に迫ってきたというのは、

 

ひとえに自分のコンプレックスによるものに違いない。

 

 

ただこれはね、私が卑屈で「私のことを好きになってくれる人なんていない」と思い込んでいるだけとも言い切れないと思う。

 

だって、「この人と一生連れ添いたい」と思える人が現れたとして、それと、あそこまで圧倒的なつながりを感じられるかどうかは別問題。あそこまで圧倒的につながるために必要なものは、時間とか性格の一致とか愛情の深さではなく、

 

 

多少のおめでたい思考回路がないと無理だと思うんです。

この人だ、この人しかいない、この人が自分の片割れなんだと無心で信じられる、思い込める、そんな精神力が必要だし、しかもそれをふたりとも持ち合わせている必要がある。

 

 

まああれはフィクションだから、かれらは別におめでたかったわけではなく、私たちの知らない何かで結ばれていたわけだけれど、

 

 

要するにああいう結びつきは現実では上記の条件が揃わない限り基本的には起こらない。そんな当たり前のことが、あの映画が美しすぎたせいでえらく悲しく感じたんですよね。

 

 

そういえば今日「君の名は 鬱」で検索して引っかかったはてブが面白かったのでリンク貼っておく。

chomosh.hatenablog.com

主張はこのひと段落に集約されていた。

忘れないように手のひらに名前を書きあおうって流れの中で「すきだ」って書くの完全にサイコパスだし、3年の時間差があることをネット上の日記書いてて気づかないのはどんだけ画面を見てなかったんだとか、そういうのですよ。別にね、都合のいい展開が嫌いなわけじゃないですよ。でも、彼らは本当に物語にとって都合のいいところだけ忘れるし、やってることがアホ丸出しなのになんだかんだ成功してしまうのを見ると、「やっぱりイケメンと美少女ってすげえんだなあ」とかそういう感想になってしまうよ。穿ったオタクとしてはさ。

目線が男性なので私の意見とだいぶ切り口は違うんですけど、自分のコンプレックスが浮き彫りになって鬱になったという流れは一致。

 

あ、なんかこのブログだけ見ると勘違いされてしまいそうなんですが、私はこの映画本当にすばらしい作品だと思いましたし映像も風景も全てが美しくてついにジブリを超える作品に出会ったのかって(私なんかが評価するのもおこがましいですが)思ったんです。

 

 

ただ、自分のコンプレックスが強すぎて劇薬だったという。

景色の美しさも、とにかくありもしない思い出を思い出しそうになるのがこわくてですね。

 

 

あ、あと最後に一点。全く別のことでもすごく鬱になったんです。

 

それは、こんなすごい作品を作れる人がいて、声優さんもRADも最強にすごくて、作画もすごくてストーリーも演出もすごくて、

 

 

私はなんてちっぽけなんだろうとw

 

 

 

ほんとそんな偉人たちと自分比べるなよ、かえって失礼だろ、って話なんですけど、一応クリエイティブのすみっこにいる身として、あまりに巨大な才能を前に立ちすくんでしまった

 

 

私は一生、客席で圧倒される側にいて、舞台の上からの景色は見れないんだなって、思い知ったというか。私はアニメーションを書いているわけではないんですが、あまりに圧倒的だったので、なんだかとても悲しかった。ジャンルを問わず、自分の努力やビジョンの延長線上にあんな人の心を揺さぶる何かが見えてこない。想い描くことすらできない。

 

 

昔は、夢を見れたものですが。今はただ、膝をつくのみ。

 

 

以下2018.1.7追記

 

どれくらい好きかというと、ブルーレイはコンプリート版を買ったくらいですよ。開いたときの見開きのビジュアルが最高だね。Youも買っちゃいなよ

 

「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組
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ハタチの頃

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なんだか自分がもう27歳ということ自体にわかには信じられないけれど

ふとしたときに昔のことを思い出してしんみりするなんてこと、それこそ前は考えられなかった。

 

今これからの作業を楽しむためにホットココアをいれたんだけど、しっぽりBGM聞きながらココアを口にしたら突然はたちの頃のことを思い出してしまったんです。

 

はたちって言ったらなんなら昨日のことくらいに思っているけれど、こうしてふっと感覚的に思い返すはたちの私はなんだかとっても遠い存在に感じる。自分なのに、二度と会えない自分という感じがする。

 

19のときわたしは(一つ目の)大学に入ったばかりで、そこは医学部だったので結構多浪の人とかも多くて、12年間女子校で清く正しく育った私には驚くようなことがたくさんあった。

 

2年生になったあるとき、学籍番号が隣の5つ年上の同級生にお家に招かれ(ちなみにそういうことではなく本当にクラスメイトとして)、その人は4年制大学を卒業してから医学部にきていたから本当にコテコテの“おもてなし”を知っている人だった。

 

お家に行くと「前から思ってたけどその靴かわいいね」とすかさずリップサービスが入り(どんな靴だったか思い出せなくて悔しい)、通された間接照明たっぷりのお部屋にはおしゃれなBGMが流れていた。

 

そしてなぜかカクテルグラスがあり、リキュールがいろいろあり、わたしがチョコレート大好きなのを知っていてグラスホッパーを作ってくれた。

 

今でこそそんな家に通されたら若干引いてしまうが、当時の私にはそれなりのカルチャーショックだった。

 

それ以来私も来客のときにはそれっぽいBGMを流せるように用意している。今はYouTubeにお任せだけど。そして電球も白いものではなく電球色(温かみのある方)にして、光量を調節できるものしかつけなくなった笑

一応間接照明も置いてはある。

 

なんだかあの頃はいろんなことがすてきに思えたな。

 

人生を揺るがすような大恋愛もはたちのときにあった。うまくいかないこともうまくいくこともたくさんあったなあ。

 

今も毎日生きるのに必死だけど、きっと10年後には今の毎日が煌めきを放ち始めるんでしょう。

最近たまに「これが人生ってものなのか」と思うときがある。成長したね。

アラサーの作文

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わたしは文章を読むのが大好きです。

 

文字での笑いって時差ありません?

人のツイートを見て笑うときは、だいたい二回読んだ上で2秒くらい間があって、そこで笑いが脳に到達して声に出たりします。

それがとても楽しいです。

 

他愛のない文章を読むのも好きです。fbにのっている近況報告を読むのも、人のブログを読むのも好き。

 

もちろん小説も大好きです。小説は一番好きです。まねしたい表現がいっぱいあってわくわくするし、おはなしの続きをめくるのも好きです。

 

書くというのは、大変だけれど、なんだかんだ一番身近なクリエイティブだと思います。

料理も、そうだなと思うんだけれど、身近なところにクリエイティブはあるなって。クリエイティブなんて言うと大仰だけど、助詞をひとつ選ぶのも、語尾を考えるのも、どう伝えたいかを考えるのも、「表現」だなと思うわけなんです。

 

まあ、書くのは単純に疲れるので、読むほうが好きです。書くのは、まだまだ未熟だと思い知るばかりでだいたいつらいけど、でもやっぱり好きです。

 

おわり

抑うつ状態で今すぐ死にたい人へ

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なんでこんなこと書くのと言われても、明確な答えは思いつきません。

 

でも今日は、うつ病で自殺を考えている人に、自殺未遂をして精神病棟も紹介された状態を乗り越えなんやかんや社会復帰を果たした私から、ちょっとだけお手紙を書くことにします。

 

ほぼ実名でwebライターをしている今、うつ病の既往歴ってわざわざ書かなくてもいいよね、むしろやめとこうという題材ではありますが

 

もういいんだよそういうことは。ええい、ままなれ

 

さて、さかのぼること7年。

当時二十歳だったわたしは、某医学部の2年生でした。

 

医師の家系に生まれ、幼少期から将来自分は医者になるんだろうなーと思い込みながら育ち、なまじ要領がよかったばっかりにストレートで医学部に入ってしまったわたし。

理想と現実のギャップに、苦しみました。

 

まず、勉強が大変すぎる笑

そもそも受験自体、毎日12時間くらい勉強し、円形脱毛なども経験しつつ最終的に悟り開いて乗り切っているというのに、その受験の直後に、さらに過酷な勉強量が待ち受けてるってこと自体どうかと思うわ。

 

確かに、近い将来誰かの命を預かるわけですし、きちんとした医師になるために人一倍勉強が必要なことは当然理解できます。でも10代後半っていうのは、一応思春期にあたるわけだし、理屈でどうこうできる時期じゃないじゃないですか。

 

もともと好奇心旺盛で、やってみたいこともいろいろあった。でも、超がつく進学校だったから、それら全てトランクにぎゅっと詰め込んで破裂しそうな状態で受験生してたわけなんです。

受験終わったらこのトランクあけて、一枚一枚広げてみるんだって楽しみにしてたのに、いざ進学してみたら、受験勉強の方がはるかに楽だったじゃんと気づく。

 

「夢の詰まったトランクは永遠に封印されて鍵を閉められたんだ、この勉強が一っっっっっっっ生続くんだ…」って思ったら、本当に怖くて。

 

そういうマインドでいたときに、きっかけは恥ずかしすぎて言えないんですけど、なかなか大規模なダークサイド転落事故を起こし、そこから坂道を転がるように状態が悪化。

もうここ(医学部)から逃げ出したい!!限界!!となったときが過去最悪に抑うつ状態だった時期です笑

 

想像に難くないと思いますが、わたしが医学部に入れたのは、両親や家族のこれ以上ないほどのサポートがあったからでした。それは精神的なものもそうですし、当然、金銭面でもそうです。

ほんとに、トータルでいったら数千万…

それを考えたら、医学部をやめるなんて不可能でした。

そこで、すでに極限まで精神が磨耗していたわたしは、「残された選択肢…それは死」と思って(どんだけ短絡的)、ほんとにやらかしてしまうわけですね。

 

。。。

あー生きててよかったあ笑

危ない危ない笑

 

その後紆余曲折あって芸大に受け入れてもらったのですが、最初の2年くらいは精神も割と荒波に揉まれまして、よく軽いノリで「メンヘラ乙ww」みたいに言われていたのですがその度にまあまあ傷ついていました。(そして第二回目もやらかすのですがこの話はもういいや)

 

大人になるとは不思議なもので、今私は27歳なのですが、ここ1、2年はほとんど自死願望があらわれなくなりました。

 

何が劇的に変わったというわけではないので、多分精神が自然と成熟して、もう少し物事を俯瞰的に見れるようになったり、マインドコントロールができるようになってきたのかなと思います。

 

先日「メンヘラは無理をしない」と発言したところ、すこし反響があったのですが、これは自分の経験から言えることで、

「精神がこれくらいの状態になったら私は死を選んでしまう」という過去の事例から逆算して、

・ここまでつらいことはしない

・ここまでつらくなったら逃げ出す

という線引きができるようになったんです。

 

たとえば、世の中にはブラック企業で心身ともに磨耗して自殺を選んでしまう方がいますね。多分そういったニュースを見ている人はこう思うと思います。

「死ぬほどつらかったなら、どうして会社やめなかったんだろう…」

 

まあ、やめれないですよね。

心身が磨耗すると判断力が鈍るんですよ。最終的にはもうわけがわからなくなって、わけがわからないまま線路などに吸い込まれているものと思われます。

 

自殺って、すこしでも判断能力が残ってたら、こわくてなかなかできないですよ。大きな電車がすごいスピードでホームに滑り込んできて、そこに飛び込めますか?飛び込めないでしょ普通。

 

私の提案はこうです。

判断能力があるうちにやめましょう。

 

会社だけじゃないです、あなたが死を考えている原因、取り除けるのであれば取り除きましょう。判断できるうちに。

 

それはもしかしたら浮気を繰り返す彼氏かもしれないし、うまくいかない家族関係かもしれないし、具体的になにかは人それぞれだけど、この世に取り除けない原因ってそうそうないです。

 

会社やめるとかも含めて、ちょっとやそっとじゃ取り除けないものはあると思いますけど、そもそも冷静に考えればあなたが直面している選択肢は「取り除くか」「死ぬか」の二択であり、

それで後者になることってあります?

 

会社の例ばかりで恐縮ですが(他意はない)、たとえば会社をやめたいとするでしょ。まわりに相談すると、みんなもう少し頑張ってみろと言う。たまに田舎に帰れば両親も、無邪気に「立派な仕事についてくれて鼻が高いわ✨」なんて言ってくる。

 

やっぱりやめれないってなりますよね。だいたい次の仕事見つかるか不安だし生活もどうなるか…って思いますよね。

でも「次の仕事見つかるか」どうかの心配って、生きていること前提の心配ですよね。

もう死のうという決意を固めかけている人が次の仕事の心配する必要ないですよね。

 

しかもあなたが死んだらまわりの人も家族もこう言いますよ。

「そこまで悩んでいたならどうしてやめなかったのか……」

 

お前らだよってなりますよね。

 

でもそれってやっぱり違う。自分を守れるのは自分だけです。まわりが手を差し伸べてくれると思ったら大間違い。

家族ですら精神までは守れない。これは本当に肝に銘じてほしい。

誰かに助けてもらおうと思っても無駄。どんなに親や友達から愛されてても、精神は誰にも踏み込めない域なんですよ。だから自分の精神は自分で守ってください。

死ぬ覚悟があるなら他の方法も絶対ある。

精神が死ぬと肉体も死ぬ。まずは精神を守ってほしいと思います。

 

一時期わたしは、精神が弱いというのは本当に人としてものすごい欠陥なんだ、社会性に関わる大問題なんだと思っていたのですが、

 

そう思っていても弱いものは弱くてしょうがないんでこれはもうハンディキャップというか、個性なんだと思うようにしています(開き直り)

 

生まれつき背が低いとか、血液型とか、そういう先天的な要素のひとつとして、「メンヘラ気味」っていうのがあるってことにして割り切りました。

 

だってもうしょうがないものはしょうがないんだもん。もうしょうがなくない!?(頭悪そう)

 

死を選ぶくらいだったら、いっそメンヘラな自分を許して受け入れて余生をまっとうしたほうがいいんじゃないのかって。ね、建設的でしょ。

 

だからもう、基本は生きているだけでほめられたいです。でも誰もほめてくれないので、日々自分でほめてます。

 

みんなも、あんまり自分を責めないで、たまには生存していることをほめてあげてくださいね。

 

 

でもこんなこと言っていいのかわからないけど、ほんとにほんとにもう無理って思ったら、死んじゃってもいいと私は思ってます。

そういうふうに考えるだけで、少し気がらくになりますよ。

とりあえず仕事やめて、それでも無理だったら死のうとか、そういう考え方は意外と心軽くします。

 

きっとなんとかなりますから、10年後のことじゃなくて明日の自分の精神を守る方向性で行動を起こしてくださいね。

 

お互い、がんばりましょう。

谷を愛する

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ご無沙汰!

ライターをしているというと、ご自身のブログとかもあるんですか?と聞いてくださる方がいるんですが、「ありません」と即答しています。

ここは、一応ブログなんですけど、「ライターのやっているブログ」というとはあちゅうさんやイケハヤさんのように毎日更新される、仕事に直結するようなものを想定されていると思うので、ありませんということで相違ないかと思います。

ここは別名、チラ裏なので。

 

今日も近況をたらたらと。

フリーランスになってからすごく忙しくて、働いている時間だけ見たら明らかに会社員時代より働いています。で、疲れていて、時折精神もくたくたになります。

その状態をですね、「繁盛している」というふうにとらえて素直に喜べれば、それも嬉しい悲鳴ということでまあ良いんですが、「自分がどんくさいからこうなるんだ」という自責モードに入ってしまうと結構しんどくてですね。

 

でもこれってとらえ方の問題で「忙しくて疲れている」という事実は事実なのでそこを解決していくしかない。それは仕事を多少絞るという選択肢でもいいし、睡眠時間や食事を整えてメンタル力を鍛えるという選択肢でもいいし、解決に向けてなにかしないとただただ疲れているだけなんですよね。

こうして仕事とは関係ない文章を書くのも、かなり気晴らしになります。今日、一個大きいものを納品したので、割と気持ちは落ち着いています✨

 

最近悟ったんですけど、精神っていうのは傷つくものなんだなと。

 

ずっと、「楽して生きる」のがテーマでした。割と器用な方なので8割の努力でずっとやってきたし、本当につらいことからはすぐに逃げてきました。

そのスタンスは今も変わらないし多分これからも変わらないけど、その上で思ったのは、そういう生き方を選んでもやっぱり楽には生きられないという現実…笑

とにかく精神衛生を保つことばかり考えて生きているんですけど、やっぱり100パーセントいつも楽しいとかラクとかってことは起こりえない。どんな仕事も、絶対につらい側面があるし絶対に楽に稼ぐとかできない。人間関係も同じで、どんなに器用に立ち回ったって困難が訪れるときは訪れるし、恋愛だって正解なんてものはどこにもない。

 

芸大時代、たいした技能はないですけど作曲を専攻していて、ほんとに生みの苦しみってやだなって思ったんですよ。作品を「作らないといけない」というプレッシャーが本当に負担で(じゃあなぜ専攻したのか✋)、生みの苦しみを味わわなくていい仕事につきたいと心底思ったものです。

なので正直ライターとかも毎日文章書くの無理ってほんとに思ってた。文章書くの得意だけど、たまにでいいんだよたまにで。毎日何千文字も書くなんてつらいんだよ。普通に。しかし成り行きでライターとなってしまった。案の定もう何も考えたくないとか筆が進まなすぎる日とか、無知なジャンルについて書くことになって苦しむとか締め切りに追いかけられるとか本当いろいろある。もっと楽な仕事あったらいいなとか思ったりした。

でも2年毎日書き続けてようやくその苦しみも仕事の一部として受け入れられるようになってきた気がする。(諦めとも言う)

 

毎日ってあっという間に過ぎ去っていきますよね。つらい日も楽しい日もあっという間に過ぎ去っていく。今日つらくても、明日つらいとは限らないし、明日楽しくても、あさって楽しいとは限らない。人間ってナマモノだし、毎日が100点の日にはなりっこない。本当につらくて仕事やめたい、なにもかも投げ出したいと思うときはあるけど、そのあとたくさんの人に読んでもらえたり良かったと言ってもらえたりするとトントンになったりする。

 

私、人生山あり谷ありって言葉があんまり好きじゃなくて。つらいつらいってなってるときに、「人生は山あり谷ありだよ」とか言われると、「それは一応知識としては知ってる」ってなるじゃないですか。てかそれは、あとから振り返ったときに結果的に「谷もあれば山もあったな」って思うものであって、「今、谷だからこの先山があるだろう」っていうのとは違うじゃないですか。しかもその理論でいったら山フェーズのとき大変ですよ。「今楽しいけどこれから谷フェーズくるに違いないgkbr…」とかいやだわ笑

 

なので、人生山あり谷ありは80歳になったら言いたい。

今は、谷にいても、目の前の谷を愛するしかなくて、いつか来る山を夢見たりはしないのさ。

 

いやー我ながらいいこと書くな!

伝える文章講座② 書き始める前のTo Do

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はいどうも。

前回は伝える文章講座ということでライティングの心意気、「おもてなしの心」についてお話させていただきました。

 

っていうこの前回の振り返りのようなものも、初めてこのブログを見てくださった方や、前回のエントリーを見ていらっしゃらない方にも、どのような趣旨と流れでこのエントリーが存在しているのかということを知っていただくために書いているんです。これもおもてなしの一言で説明がつくと思うので、ぜひみなさんも実践してください。

 

もちろん、リンクをつけるんですよ。

新宿駅で、丸の内線はこっちって矢印をたどっていけば丸の内線にたどり着くという便利さを当たり前に享受している現代日本人に対して、リンクを欠かすということは喧嘩を売っているに等しい行為だと言っても過言ではありません。

 

…と、このように一見関係ない例を引き合いに出して少しでも「面白いな」「なるほどね」と読者の興味を引くよう工夫するのも一種のおもてなし技法といえます。芋づる式で色々言えてしまう。

 

さて今回のトピックは、ライティングの前にやっていただきたいことです。

(念のため補足しますが、私はライティングの訓練をこれといって受けたこともなく、ノウハウを確立しているわけでもなく、あくまで自身の考えるライティングテクニックというのを言語化してみようという試みのなかにいるのであって、このハウツーを誰かに押し付けようとか、これが最高の方法だというような考えは持っておりません。ちなみにこういった"逃げの"注意書きはメディアでは「個人の見解です」とか「2016年○月○日現在の情報です」のような形で現れます)

 

まず全体の流れですが、

  1. 読者層の仮定
  2. ゆるいプロット作成
  3. 見直し

となっております。

(このように目次を入れるのも、最初に読み手に全体像を見せることで、その後の理解がスムーズになるであろうというおもてなし。また、ここで読み手はその記事を読むかどうか判断できる=読者が無駄な時間を使わなくて済む、という親切設計でもある)

 

1.読者層の仮定

まず読者層の仮定ですが、これはなにかというと、「誰に読んでもらいたいか」を最初に決めるということです。

たとえば、今私が書いている「伝える文章講座」では、想定している読者は

「文章を書くのが好き、もしくは興味があるけれどどのように書いたらいいのかわからない人」

です。これくらい具体的で良いです。

これくらい具体的でないと、どういう風に文章を書き進めていけばいいのかわからなくなります。

もし、想定している読者が

「文章がうまくなりたい人」

という大雑把なものだったらどうなるでしょうか。

小学生が読んでも役に立って、ブロガーが読んでも役に立って、プロのライターが読んでも役に立つ…そんな情報が書けたらそれに越したことはないのですが、たとえば小学生に対して「読者層の仮定!」なんて言ったら的外れな気がしますし、プロのライターに対して「読者層の仮定!」と言ったら初歩的すぎてまあまあ失礼です。

そう考えると、結局どこからどこまで書けばいいのかわからなくなる。読者層を決めずに文章を書き始めることは、「誰に渡すかは決めてませんが喜ばれそうなプレゼントを買ってきてください」と言われるくらい無茶な話なのです。

 

実際は、誰が読むかわかりません。むしろ想定した読者じゃない人以外の人のほうが多く読む可能性の方が高いです。ですがそこは問題ではありません。大勢をもやもやさせるより、ターゲットを満足させることの方が重要です。

 

逆に、読者を最初に仮定できれば、相手が求めていることは何か推測することができます。相手が欲しい情報を、お出しする。それがおもてなしであり、相手のかゆいところに手が届けば、「また(読みに)来よう」と思っていただける可能性も高まるというわけなんです。

 

2.ゆるいプロット作成

次に、ゆるいプロット作成です。プロットというのは、文章の流れ(構想)や、言い換えてしまえば起承転結のこと。文章を書き始める前に、大まかな流れを頭に描いておきましょうということです。

改めて考えてみたらライター仲間とプロットの書き方についてなど意見を交わしたことがないので、他の方がどのように書いているのか存じ上げないのですが、

個人的にはゆる〜〜いプロットを作ることを推奨していきたいと思います。

理由は、単純に、気が変わるかもしれないから。

書いているうちに、ここはもっと盛り込みたい、ここは思ったより膨らまなかった、といったように予定がかわることは日常茶飯事なので、プロットはやんわり組んでおくくらいのほうが、臨機応変に対応できるかなと。

 

今回のエントリーでは、私のプロットはこんな感じです。

 

タイトル案:文章を書き始める前のTo doとは

  1. 読者層の仮定
  2. ゆるいプロット作成
  3. 見直し(お茶を濁していないか、言いたいことがぶれていないか、内容に齟齬がないか、予定した着地点に着地しているか)

 

ほとんどさっきの目次のまんまじゃん!ていう。

プロットはだいたい、その記事の核となる部分だけ決まっていれば良いと思います。目次って読者のためだけでなく、最初は自分のために生まれてたんですね〜。

 

3.見直し

待って、今気づいたけど見直しって書き始める前のTo Doじゃないじゃん。

めっちゃ書き終わったあとのTo Doですよね……。

 

…っていうね、

見直しの3か条

  1. お茶を濁していないか
  2. 言いたいことがぶれていないか、内容に齟齬(そご)がないか
  3. 予定した着地点に着地しているか

の2にまさに該当する事故が起きました。

すごいテクニカルに伏線を回収した技巧記事みたいになってますが(なってないか)、普通に素で間違えただけです。

 

本来であれば、「タイトルと内容がちぐはぐになっている!」と気づいたらタイトルか内容を変える必要があるわけなんです。

今回でいうと、この「見直し」という工程はとってもお伝えしたい内容なので、タイトルを変えることになると思います。

そうですね…思い切って「伝える文章講座② テクニック編」くらいにした方がかえって面白そうに見えるかもしれません。それか「伝える文章講座② たった3つのTo Do」とか。

タイトルについては次回のエントリーで書きたいのですが本当に難しくてですね。タイトリングだけを勉強するライター講座などもあるくらいなんです。

 

残りの2か条についても補足します。

まず1のお茶を濁していないか、ですが、これは曖昧な表現は避けましょうということです。

たとえがぶっとんでますけどたとえば政治家が街頭演説で「世の中のためになるいろんなことをしていきます!」とか言ってたら「いやどんなことをするのか説明してくれよ!」ってなりますよね。

わたしたちは(というか少なくとも私は)政治家でもないし本来発言力のある人間でもないので、発言がふんわり無責任でもさほど問題ではないように思われますが、それがひとたびメディアでの発言となると、読み手の目は一気にシビアになります。

 

たとえば「文章 書き方」と検索して、このエントリーにたどり着いたとします。ここに、「文章の書き方についてはたくさんの良い書籍が出ているので調べてみてくださいね〜!」と一言書いてあったらどうでしょう。

 

がっかりしませんか?

 

文章の書き方が知りたくてたどりついたのに、文章の書き方を知ることができなかった。しかも、書籍名やリンクが貼ってあるならまだしも、それすらもなかったとなれば…

このブログは「情報の質が低いからもう来ない!」という烙印を押されてしまうわけです。

個人ブログならまだ良いですが、メディアでそれをやってしまうと読者はもう来てくれません。というわけで、曖昧な表現は極力避けるようにします。

 

と、ここまで明言したあとに言うのもなんですが、実は、逆に曖昧な表現を使うべきときもあります。

いわゆる炎上防止のためです。

ちょっと過激な表現をするときや、意見が分かれそうなことについて言及する際に、「〜といえるかもしれません」「〜という可能性も否定できませんが」「〜といえないこともない」のようにオブラートに包むときがあります。

これは保険といいますか、やはりメディアの発言力というのを考えたときに明言を避けておきたいときに使うもので、まあ…大人の礼儀作法のようなものです…。

 

なので、"意見"についてはお茶を濁すこともあるけれど、"情報"については曖昧な表現をしない! というふうに意識してくださいませ。

 

最後のひとつ、予定した着地点に着地しているか。

みなさんは、お友達と話していて、何気なく話し始めたことを一生懸命話しているうちに、気づいたら話しのオチが全然関係ないところにいってしまった、という経験はありませんか?

無計画に飛び立つと、ゴールを見失って見知らぬ土地に不時着してしまう現象は会話でも作文でもよく起きる事故です。

これは、さきほど最初に作ってくださいねと言った「プロット」があればおおかた回避できる現象なのですが、それでもやっぱりよくよく読むと若干ずれた着地をしているということが、まま起きます。

 

たとえばこんな作文です。

 

タイトル:私が猫を好きな理由

起)私は猫を7年前から飼っていて、楽しいときもつらいときも、家族同然にたくさんの時間を共有してきました。

承)気まぐれなところや、付かず離れずいつもそばにいるところ、遊ぶときのやんちゃな表情や、寝ているときの猫とは思えない無防備さが好きです。

転)でも、たまに喧嘩をするときもあります。遊びのつもりだとわかっていても、しつこく噛み付かれたり眠いときに起こされたりするとイライラすることもあります。でも、けんかするほど意思疎通がとれているということなので、それはやっぱり嬉しいことと言えるのかもしれません。

結)やっぱり私は猫が大好きです。とにかく長生きしてほしいので、最近は食事やおやつにもこだわるようになりました。

 

 

気づきますでしょうか。

結の部分でさりげなく別のトピックが始まってしまっています。この作文のテーマは「私が猫を好きな理由」だったはずなのに、最後は理由ではなく「猫を好きな結果こうなった」という若干違う話題へ静かに移行してしまっています。

まとめの段落でさりげなく違うところに着地するというのはとってもよく起きます。

正直プロのライターでもたまに見かけるくらいです…もっと小さい事故ですが。

これが起きる理由は明白で、気を張って本文を書いたあと「よーしもうまとめだ〜✨」と思って気が抜けているんですね。(多分)

 

とにかく、書き終わったら、読み直す。もっと余裕があれば、翌日読み直すとさらに良いです。その一手間で、文章の精度をぐっと高めることができると思います。

 

長くなってしまってすみません。

次回はタイトリングについて書きたいと思います。

タイトルがPV数を左右するといっても過言ではないくらいタイトル付けは重要なのですが、内容と乖離(かいり)してはいけないという絶対的なルールがあります。

映画だって、予告編がすごく面白そうだったのに本編を見たら全然予告編でイメージしてたものと違った…となるとなんだか騙されたような気分になると思うのですがそれと同じことです。

しかしタイトリングは本当に奥が深いので私が何か言うのは本当にリスキーというか自分でもどうかと思うのですが…、たとえ付け焼き刃でもいくつか本当に重要だと思う点はピックアップしてお伝えできたらいいなと思っています。(願望)

 

では。

ノリコ・ニョキニョキ

 

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