それでも恋するノリコ

恋愛ブログではありません!

疲れた

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端的に言って、疲れた!

何にということはないけど疲れた。

 

それで夜中ではあるけれど目的もなく池袋に出てきました。最寄駅を通過するくらいの時間がちょうど終電のつく時間くらいだったと思うんだけど、「土曜の夜に終電で帰ってきました!」って感じのGirlsがなんとも言えない店じまい感を出しながらこの寒空をぽてぽてと歩いて帰っていくものだから思わず見守ってしまった。

 

なんだろうな、今週の営業は終了しました感出てた。一週間を生き抜いた彼女たちが帰っていく家に、彼氏が待っているのか、家族が待っているのか、ひとりなのかわからないけど、どんなお家に帰っていくのかすごく気になっちゃった。なんにせよ、ゆっくりできるといいね。

 

そしてそこから池袋に向かって歩いていくと…まあ終電を逃した人々が途絶えることなく池袋から延々とこの街道を歩いてくるんですわ。この大通りすごい好き。和光方面に住んでる人たちみーんなこの道を延々と歩くんだもん、おもしろい。

 

コンビニの袋持ったおじさん、夜のお仕事っぽい女の人、売れてなさそうなホストっぽい人、仲良く手を繋いだカップル、なぜか笑顔で自転車に乗っていたかわいい女の子、大きく手を振って信号の向こうの友達に「お疲れー!」って言ってた男の人、いろんな人とすれ違ったけど一番印象的だったのは

 

コンビニのところで彼女と待ち合わせてたのかな、仕事帰りふうの男の人がその女性を見つけてパッと笑顔になったのを見たとき。全く知らない人の、「THE 親しい人の前でしか見せないであろう表情」って感じの代物を不意打ちで目の当たりにしてしまって破壊力あった。

 

そんなこんなで池袋について今私は何しているかというと…仕事…と見せかけてブログ…

書くことの息抜きが書くことなんて、おかしな話だと思います。ちなみに手書きの日記も毎日つけているのですがこれまた良い息抜きになるんですよね。

 

そしてこのブログを見てくださる人には高確率で「ブログ見ましたけど大丈夫ですか?」って言われるのでできればもう少しキャッチーなことを書くようにしたいです。それは来年以降心がけたいと思います。よろしく

忘れられないこと

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忘れられないことがある。

 

私が17歳くらいだったとき、医学部専門予備校に通ってたんだけどそこで友達になったHちゃんという女の子が

 

「私は『話し合えば誰でも分かり合える』って思ってるの!」

 

と言ったそのセリフ。10年間ずーーーーっと頭に残ってる。

 

そのときはそうかなぁ、まあ根気のある人ならそうなのかもしれないな、って思ったんだけどそれから10年間いろんな局面があって、そのたびにこの言葉を思い出すんだけど最終的にこの答えはNOなんじゃないか?って思っていて。

 

話し合うっていうか、自分の考えをどんなに一生懸命伝えようと思っても伝わらなかったときってたくさんあるし、逆に相手の話をどう受け取り方を工夫しても自分の中に落ちてこなかったこともたくさんある。

 

それってそれぞれが何十年かの人生の中でずっと育ててきた価値観がそもそも違ったりすると同じ前提のもとで話せないし、多様性をどこまで受け入れるキャパシティがあるのかという話にもなってきて

 

やっぱり根気だけの問題ではないでしょう。と、私は思う。

 

もちろんそのあたりも人それぞれの考え方なんだけど。私が気になるのはいまだにその子が同じ考えを持っているのかということ。その子がこの10年間で考えを変えたのか、それともいまだに「話し合えば誰でも分かり合える」と思っているのか。

 

もし後者だったら、きっと私は嬉しい。私が人生において早々に諦めたことを、まだHちゃんが掴んでいてくれたらいいなあって。

(ネタバレ注意)君の名は。を見たら鬱になってデパスの世話になったはなし

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今日「君の名は。」を見た。ものすっごい恐怖を感じ、そして久しぶりに抑うつ状態になってしまった。

 

同じような感想を抱く人はいないものかと、ツイッターやグーグルで「君の名は 鬱」と検索してもそれらしきものは見当たらなくて

 

今私は心底ひとりぼっちの気分だ。

 

 

私は、自分なりに自分の恐怖感の理由を考えてみた。そしたらあっさり分析できた。(話が早い)

 

 

それは一言でいうと、「彼ら(主人公たち)は片割れに出会えたのに私は一生出会えないと本能レベルで感じた」から。

 

 

私が意図せず死ぬとき、誰も時空を飛んで助けにはこないし、道を歩いていても私を見出してハッとしてくれる人なんていない。私をあんなふうに求めて山道を走ってくる人はいない。私のために村の運命を変えてくれる人なんていない。ということが妙に怖かった。

 

 

だってヒロイン死ぬんだもん…。死んだのに、愛の力でそれを回避したんだもん。でももし私が今隕石にぶつかって死んだら、誰も助けにこないじゃん。

 

 

なんかあの映画は、見ると結婚したくなると言われているらしい。いいなあ、みんな相手がいてw

私はあの映画の後半からもう「私は今隕石が落ちてきたら独りで死ぬんだ」という考えに支配されてそのあと2時間ほどリアルに吐き気と戦ったよ(だからなに)

 

 

でもこの話をしたら、「それはいくらなんでも見方が歪みすぎ」と言われた。確かに、私のこの感想ってストーリーとかあんま関係なくて、なんで入れ替わったのかとか、どうして相手が瀧くんだったのか、あの先輩はなんだったのかとかそういうのどうでもよくて、ただ

 

「圧倒的なつながりを感じられる運命の人的な存在」が自分には一生やってこないという事実だけ衝撃的に迫ってきたというのは、

 

ひとえに自分のコンプレックスによるものに違いない。

 

 

ただこれはね、私が卑屈で「私のことを好きになってくれる人なんていない」と思い込んでいるだけとも言い切れないと思う。

 

だって、「この人と一生連れ添いたい」と思える人が現れたとして、それと、あそこまで圧倒的なつながりを感じられるかどうかは別問題。あそこまで圧倒的につながるために必要なものは、時間とか性格の一致とか愛情の深さではなく、

 

 

多少のおめでたい思考回路がないと無理だと思うんです。

この人だ、この人しかいない、この人が自分の片割れなんだと無心で信じられる、思い込める、そんな精神力が必要だし、しかもそれをふたりとも持ち合わせている必要がある。

 

 

まああれはフィクションだから、かれらは別におめでたかったわけではなく、私たちの知らない何かで結ばれていたわけだけれど、

 

 

要するにああいう結びつきは現実では上記の条件が揃わない限り基本的には起こらない。そんな当たり前のことが、あの映画が美しすぎたせいでえらく悲しく感じたんですよね。

 

 

そういえば今日「君の名は 鬱」で検索して引っかかったはてブが面白かったのでリンク貼っておく。

chomosh.hatenablog.com

主張はこのひと段落に集約されていた。

忘れないように手のひらに名前を書きあおうって流れの中で「すきだ」って書くの完全にサイコパスだし、3年の時間差があることをネット上の日記書いてて気づかないのはどんだけ画面を見てなかったんだとか、そういうのですよ。別にね、都合のいい展開が嫌いなわけじゃないですよ。でも、彼らは本当に物語にとって都合のいいところだけ忘れるし、やってることがアホ丸出しなのになんだかんだ成功してしまうのを見ると、「やっぱりイケメンと美少女ってすげえんだなあ」とかそういう感想になってしまうよ。穿ったオタクとしてはさ。

目線が男性なので私の意見とだいぶ切り口は違うんですけど、自分のコンプレックスが浮き彫りになって鬱になったという流れは一致。

 

あ、なんかこのブログだけ見ると勘違いされてしまいそうなんですが、私はこの映画本当にすばらしい作品だと思いましたし映像も風景も全てが美しくてついにジブリを超える作品に出会ったのかって(私なんかが評価するのもおこがましいですが)思ったんです。

 

 

ただ、自分のコンプレックスが強すぎて劇薬だったという。

景色の美しさも、とにかくありもしない思い出を思い出しそうになるのがこわくてですね。

 

 

あ、あと最後に一点。全く別のことでもすごく鬱になったんです。

 

それは、こんなすごい作品を作れる人がいて、声優さんもRADも最強にすごくて、作画もすごくてストーリーも演出もすごくて、

 

 

私はなんてちっぽけなんだろうとw

 

 

 

ほんとそんな偉人たちと自分比べるなよ、かえって失礼だろ、って話なんですけど、一応クリエイティブのすみっこにいる身として、あまりに巨大な才能を前に立ちすくんでしまった

 

 

私は一生、客席で圧倒される側にいて、舞台の上からの景色は見れないんだなって、思い知ったというか。私はアニメーションを書いているわけではないんですが、あまりに圧倒的だったので、なんだかとても悲しかった。ジャンルを問わず、自分の努力やビジョンの延長線上にあんな人の心を揺さぶる何かが見えてこない。想い描くことすらできない。

 

 

昔は、夢を見れたものですが。今はただ、膝をつくのみ。

 

 

以下2018.1.7追記

 

どれくらい好きかというと、ブルーレイはコンプリート版を買ったくらいですよ。開いたときの見開きのビジュアルが最高だね。Youも買っちゃいなよ

 

「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組
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ハタチの頃

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なんだか自分がもう27歳ということ自体にわかには信じられないけれど

ふとしたときに昔のことを思い出してしんみりするなんてこと、それこそ前は考えられなかった。

 

今これからの作業を楽しむためにホットココアをいれたんだけど、しっぽりBGM聞きながらココアを口にしたら突然はたちの頃のことを思い出してしまったんです。

 

はたちって言ったらなんなら昨日のことくらいに思っているけれど、こうしてふっと感覚的に思い返すはたちの私はなんだかとっても遠い存在に感じる。自分なのに、二度と会えない自分という感じがする。

 

19のときわたしは(一つ目の)大学に入ったばかりで、そこは医学部だったので結構多浪の人とかも多くて、12年間女子校で清く正しく育った私には驚くようなことがたくさんあった。

 

2年生になったあるとき、学籍番号が隣の5つ年上の同級生にお家に招かれ(ちなみにそういうことではなく本当にクラスメイトとして)、その人は4年制大学を卒業してから医学部にきていたから本当にコテコテの“おもてなし”を知っている人だった。

 

お家に行くと「前から思ってたけどその靴かわいいね」とすかさずリップサービスが入り(どんな靴だったか思い出せなくて悔しい)、通された間接照明たっぷりのお部屋にはおしゃれなBGMが流れていた。

 

そしてなぜかカクテルグラスがあり、リキュールがいろいろあり、わたしがチョコレート大好きなのを知っていてグラスホッパーを作ってくれた。

 

今でこそそんな家に通されたら若干引いてしまうが、当時の私にはそれなりのカルチャーショックだった。

 

それ以来私も来客のときにはそれっぽいBGMを流せるように用意している。今はYouTubeにお任せだけど。そして電球も白いものではなく電球色(温かみのある方)にして、光量を調節できるものしかつけなくなった笑

一応間接照明も置いてはある。

 

なんだかあの頃はいろんなことがすてきに思えたな。

 

人生を揺るがすような大恋愛もはたちのときにあった。うまくいかないこともうまくいくこともたくさんあったなあ。

 

今も毎日生きるのに必死だけど、きっと10年後には今の毎日が煌めきを放ち始めるんでしょう。

最近たまに「これが人生ってものなのか」と思うときがある。成長したね。

アラサーの作文

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わたしは文章を読むのが大好きです。

 

文字での笑いって時差ありません?

人のツイートを見て笑うときは、だいたい二回読んだ上で2秒くらい間があって、そこで笑いが脳に到達して声に出たりします。

それがとても楽しいです。

 

他愛のない文章を読むのも好きです。fbにのっている近況報告を読むのも、人のブログを読むのも好き。

 

もちろん小説も大好きです。小説は一番好きです。まねしたい表現がいっぱいあってわくわくするし、おはなしの続きをめくるのも好きです。

 

書くというのは、大変だけれど、なんだかんだ一番身近なクリエイティブだと思います。

料理も、そうだなと思うんだけれど、身近なところにクリエイティブはあるなって。クリエイティブなんて言うと大仰だけど、助詞をひとつ選ぶのも、語尾を考えるのも、どう伝えたいかを考えるのも、「表現」だなと思うわけなんです。

 

まあ、書くのは単純に疲れるので、読むほうが好きです。書くのは、まだまだ未熟だと思い知るばかりでだいたいつらいけど、でもやっぱり好きです。

 

おわり

抑うつ状態で今すぐ死にたい人へ

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なんでこんなこと書くのと言われても、明確な答えは思いつきません。

 

でも今日は、うつ病で自殺を考えている人に、自殺未遂をして精神病棟も紹介された状態を乗り越えなんやかんや社会復帰を果たした私から、ちょっとだけお手紙を書くことにします。

 

ほぼ実名でwebライターをしている今、うつ病の既往歴ってわざわざ書かなくてもいいよね、むしろやめとこうという題材ではありますが

 

もういいんだよそういうことは。ええい、ままなれ

 

さて、さかのぼること7年。

当時二十歳だったわたしは、某医学部の2年生でした。

 

医師の家系に生まれ、幼少期から将来自分は医者になるんだろうなーと思い込みながら育ち、なまじ要領がよかったばっかりにストレートで医学部に入ってしまったわたし。

理想と現実のギャップに、苦しみました。

 

まず、勉強が大変すぎる笑

そもそも受験自体、毎日12時間くらい勉強し、円形脱毛なども経験しつつ最終的に悟り開いて乗り切っているというのに、その受験の直後に、さらに過酷な勉強量が待ち受けてるってこと自体どうかと思うわ。

 

確かに、近い将来誰かの命を預かるわけですし、きちんとした医師になるために人一倍勉強が必要なことは当然理解できます。でも10代後半っていうのは、一応思春期にあたるわけだし、理屈でどうこうできる時期じゃないじゃないですか。

 

もともと好奇心旺盛で、やってみたいこともいろいろあった。でも、超がつく進学校だったから、それら全てトランクにぎゅっと詰め込んで破裂しそうな状態で受験生してたわけなんです。

受験終わったらこのトランクあけて、一枚一枚広げてみるんだって楽しみにしてたのに、いざ進学してみたら、受験勉強の方がはるかに楽だったじゃんと気づく。

 

「夢の詰まったトランクは永遠に封印されて鍵を閉められたんだ、この勉強が一っっっっっっっ生続くんだ…」って思ったら、本当に怖くて。

 

そういうマインドでいたときに、きっかけは恥ずかしすぎて言えないんですけど、なかなか大規模なダークサイド転落事故を起こし、そこから坂道を転がるように状態が悪化。

もうここ(医学部)から逃げ出したい!!限界!!となったときが過去最悪に抑うつ状態だった時期です笑

 

想像に難くないと思いますが、わたしが医学部に入れたのは、両親や家族のこれ以上ないほどのサポートがあったからでした。それは精神的なものもそうですし、当然、金銭面でもそうです。

ほんとに、トータルでいったら数千万…

それを考えたら、医学部をやめるなんて不可能でした。

そこで、すでに極限まで精神が磨耗していたわたしは、「残された選択肢…それは死」と思って(どんだけ短絡的)、ほんとにやらかしてしまうわけですね。

 

。。。

あー生きててよかったあ笑

危ない危ない笑

 

その後紆余曲折あって芸大に受け入れてもらったのですが、最初の2年くらいは精神も割と荒波に揉まれまして、よく軽いノリで「メンヘラ乙ww」みたいに言われていたのですがその度にまあまあ傷ついていました。(そして第二回目もやらかすのですがこの話はもういいや)

 

大人になるとは不思議なもので、今私は27歳なのですが、ここ1、2年はほとんど自死願望があらわれなくなりました。

 

何が劇的に変わったというわけではないので、多分精神が自然と成熟して、もう少し物事を俯瞰的に見れるようになったり、マインドコントロールができるようになってきたのかなと思います。

 

先日「メンヘラは無理をしない」と発言したところ、すこし反響があったのですが、これは自分の経験から言えることで、

「精神がこれくらいの状態になったら私は死を選んでしまう」という過去の事例から逆算して、

・ここまでつらいことはしない

・ここまでつらくなったら逃げ出す

という線引きができるようになったんです。

 

たとえば、世の中にはブラック企業で心身ともに磨耗して自殺を選んでしまう方がいますね。多分そういったニュースを見ている人はこう思うと思います。

「死ぬほどつらかったなら、どうして会社やめなかったんだろう…」

 

まあ、やめれないですよね。

心身が磨耗すると判断力が鈍るんですよ。最終的にはもうわけがわからなくなって、わけがわからないまま線路などに吸い込まれているものと思われます。

 

自殺って、すこしでも判断能力が残ってたら、こわくてなかなかできないですよ。大きな電車がすごいスピードでホームに滑り込んできて、そこに飛び込めますか?飛び込めないでしょ普通。

 

私の提案はこうです。

判断能力があるうちにやめましょう。

 

会社だけじゃないです、あなたが死を考えている原因、取り除けるのであれば取り除きましょう。判断できるうちに。

 

それはもしかしたら浮気を繰り返す彼氏かもしれないし、うまくいかない家族関係かもしれないし、具体的になにかは人それぞれだけど、この世に取り除けない原因ってそうそうないです。

 

会社やめるとかも含めて、ちょっとやそっとじゃ取り除けないものはあると思いますけど、そもそも冷静に考えればあなたが直面している選択肢は「取り除くか」「死ぬか」の二択であり、

それで後者になることってあります?

 

会社の例ばかりで恐縮ですが(他意はない)、たとえば会社をやめたいとするでしょ。まわりに相談すると、みんなもう少し頑張ってみろと言う。たまに田舎に帰れば両親も、無邪気に「立派な仕事についてくれて鼻が高いわ✨」なんて言ってくる。

 

やっぱりやめれないってなりますよね。だいたい次の仕事見つかるか不安だし生活もどうなるか…って思いますよね。

でも「次の仕事見つかるか」どうかの心配って、生きていること前提の心配ですよね。

もう死のうという決意を固めかけている人が次の仕事の心配する必要ないですよね。

 

しかもあなたが死んだらまわりの人も家族もこう言いますよ。

「そこまで悩んでいたならどうしてやめなかったのか……」

 

お前らだよってなりますよね。

 

でもそれってやっぱり違う。自分を守れるのは自分だけです。まわりが手を差し伸べてくれると思ったら大間違い。

家族ですら精神までは守れない。これは本当に肝に銘じてほしい。

誰かに助けてもらおうと思っても無駄。どんなに親や友達から愛されてても、精神は誰にも踏み込めない域なんですよ。だから自分の精神は自分で守ってください。

死ぬ覚悟があるなら他の方法も絶対ある。

精神が死ぬと肉体も死ぬ。まずは精神を守ってほしいと思います。

 

一時期わたしは、精神が弱いというのは本当に人としてものすごい欠陥なんだ、社会性に関わる大問題なんだと思っていたのですが、

 

そう思っていても弱いものは弱くてしょうがないんでこれはもうハンディキャップというか、個性なんだと思うようにしています(開き直り)

 

生まれつき背が低いとか、血液型とか、そういう先天的な要素のひとつとして、「メンヘラ気味」っていうのがあるってことにして割り切りました。

 

だってもうしょうがないものはしょうがないんだもん。もうしょうがなくない!?(頭悪そう)

 

死を選ぶくらいだったら、いっそメンヘラな自分を許して受け入れて余生をまっとうしたほうがいいんじゃないのかって。ね、建設的でしょ。

 

だからもう、基本は生きているだけでほめられたいです。でも誰もほめてくれないので、日々自分でほめてます。

 

みんなも、あんまり自分を責めないで、たまには生存していることをほめてあげてくださいね。

 

 

でもこんなこと言っていいのかわからないけど、ほんとにほんとにもう無理って思ったら、死んじゃってもいいと私は思ってます。

そういうふうに考えるだけで、少し気がらくになりますよ。

とりあえず仕事やめて、それでも無理だったら死のうとか、そういう考え方は意外と心軽くします。

 

きっとなんとかなりますから、10年後のことじゃなくて明日の自分の精神を守る方向性で行動を起こしてくださいね。

 

お互い、がんばりましょう。

谷を愛する

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ご無沙汰!

ライターをしているというと、ご自身のブログとかもあるんですか?と聞いてくださる方がいるんですが、「ありません」と即答しています。

ここは、一応ブログなんですけど、「ライターのやっているブログ」というとはあちゅうさんやイケハヤさんのように毎日更新される、仕事に直結するようなものを想定されていると思うので、ありませんということで相違ないかと思います。

ここは別名、チラ裏なので。

 

今日も近況をたらたらと。

フリーランスになってからすごく忙しくて、働いている時間だけ見たら明らかに会社員時代より働いています。で、疲れていて、時折精神もくたくたになります。

その状態をですね、「繁盛している」というふうにとらえて素直に喜べれば、それも嬉しい悲鳴ということでまあ良いんですが、「自分がどんくさいからこうなるんだ」という自責モードに入ってしまうと結構しんどくてですね。

 

でもこれってとらえ方の問題で「忙しくて疲れている」という事実は事実なのでそこを解決していくしかない。それは仕事を多少絞るという選択肢でもいいし、睡眠時間や食事を整えてメンタル力を鍛えるという選択肢でもいいし、解決に向けてなにかしないとただただ疲れているだけなんですよね。

こうして仕事とは関係ない文章を書くのも、かなり気晴らしになります。今日、一個大きいものを納品したので、割と気持ちは落ち着いています✨

 

最近悟ったんですけど、精神っていうのは傷つくものなんだなと。

 

ずっと、「楽して生きる」のがテーマでした。割と器用な方なので8割の努力でずっとやってきたし、本当につらいことからはすぐに逃げてきました。

そのスタンスは今も変わらないし多分これからも変わらないけど、その上で思ったのは、そういう生き方を選んでもやっぱり楽には生きられないという現実…笑

とにかく精神衛生を保つことばかり考えて生きているんですけど、やっぱり100パーセントいつも楽しいとかラクとかってことは起こりえない。どんな仕事も、絶対につらい側面があるし絶対に楽に稼ぐとかできない。人間関係も同じで、どんなに器用に立ち回ったって困難が訪れるときは訪れるし、恋愛だって正解なんてものはどこにもない。

 

芸大時代、たいした技能はないですけど作曲を専攻していて、ほんとに生みの苦しみってやだなって思ったんですよ。作品を「作らないといけない」というプレッシャーが本当に負担で(じゃあなぜ専攻したのか✋)、生みの苦しみを味わわなくていい仕事につきたいと心底思ったものです。

なので正直ライターとかも毎日文章書くの無理ってほんとに思ってた。文章書くの得意だけど、たまにでいいんだよたまにで。毎日何千文字も書くなんてつらいんだよ。普通に。しかし成り行きでライターとなってしまった。案の定もう何も考えたくないとか筆が進まなすぎる日とか、無知なジャンルについて書くことになって苦しむとか締め切りに追いかけられるとか本当いろいろある。もっと楽な仕事あったらいいなとか思ったりした。

でも2年毎日書き続けてようやくその苦しみも仕事の一部として受け入れられるようになってきた気がする。(諦めとも言う)

 

毎日ってあっという間に過ぎ去っていきますよね。つらい日も楽しい日もあっという間に過ぎ去っていく。今日つらくても、明日つらいとは限らないし、明日楽しくても、あさって楽しいとは限らない。人間ってナマモノだし、毎日が100点の日にはなりっこない。本当につらくて仕事やめたい、なにもかも投げ出したいと思うときはあるけど、そのあとたくさんの人に読んでもらえたり良かったと言ってもらえたりするとトントンになったりする。

 

私、人生山あり谷ありって言葉があんまり好きじゃなくて。つらいつらいってなってるときに、「人生は山あり谷ありだよ」とか言われると、「それは一応知識としては知ってる」ってなるじゃないですか。てかそれは、あとから振り返ったときに結果的に「谷もあれば山もあったな」って思うものであって、「今、谷だからこの先山があるだろう」っていうのとは違うじゃないですか。しかもその理論でいったら山フェーズのとき大変ですよ。「今楽しいけどこれから谷フェーズくるに違いないgkbr…」とかいやだわ笑

 

なので、人生山あり谷ありは80歳になったら言いたい。

今は、谷にいても、目の前の谷を愛するしかなくて、いつか来る山を夢見たりはしないのさ。

 

いやー我ながらいいこと書くな!