それでも恋するノリコ

恋愛ブログではありません!

全然好きじゃない

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利己的に生きているような自覚をもっていても、ふと冷静にまわりを見渡していると「全然好きじゃないもの」に囲まれて生きていることに気づくことがある。

 

経済的な理由で引き受けた仕事。

ついつい続話をみてしまう海外ドラマ。

誘われるがまま赴く会合。

 

逆に、大好きだけど、体重管理ができていないからとドクターに禁止される甘いものたち。

 

選んできたつもりなのに、正しく選べていない。

 

もしかしたら、一人の暮らしよりも二人の暮らしの方がいろんなことが煩雑になって

何を大切にしたいのか見えにくくなっているのかもしれない。

加えて、妊娠後期の眠さ、だるさ、ぼーーーっとするの3重苦で、とにかくあらゆることへの感度が落ちているというのもある。

 

 

少しでもぼーっとしている間に時間は矢のようにすぎていって

おとといも昨日もあっという間に終わってしまった。

 

そうして、どうしようどうしようと思っているうちに自分はどんどん年をとっていく。全然好きじゃないものに囲まれながら。

 

 

冬の好きなものについて思い出してみる

くっついて寝る猫

コンデンスミルクを入れたホットティー

クリスマスケーキとプレゼント

寒空の下恋人とくっついて歩くこと

 

どれもいい。

今年は東京から出られないから、都内で雪が見れたら嬉しいなあ。クリスマスプレゼントはねだれる立場でもないから、でもクリスマスケーキは予約してもいいかな?って、聞いてみよう。

正直、今なら1ホール全部食べられると思うんだ私。

 

好きをもっと集めないと。

好きをもっと集めないと。

 

進む

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9月ももう終わる。

妊娠アプリが「出産まで残り100days」と報せてきてなんとも言えない気持ちになる。

胎動はもう当たり前に感じる日々で、だんだんと重くなるおなかを抱えてペチペチとガニ股で歩くのにも慣れてきた。

彼との暮らしももうじき半年になるわけだが、ある程度板についてきて落ち着いた日常を過ごしている。

 

そういうときだからこそ、だろうか。

ふとした瞬間に過去のことを考える。

 

当時好きだった彼を交えたグループで朝まで飲み明かしたときの新宿のネオン

へ〜歌がうまいんだねと言ってくれたゴールデン街のママ

ふと思い立ってひとりで沖縄へ飛んで眺めた海

他のことは全部放り投げて2ヶ月毎日英語の勉強に没頭してとったTOEIC900

普段使いをするには難しい素材・デザインだけど一目惚れしてしまったからと高いお金を出して買ったかわいいブラウス

これらは自由すぎた学生時代の思い出だ

 

さらに遡ることもある

汗がしたたるのも気にせず放課後に飽きもせず何時間も円陣バレーをしたこと

結果的に家族揃っての最後の旅行となったモーレア島旅行

学校の定期テストで出題されたものの手も足もでなかった東大文系の数学の過去問

親が予約しておいてくれたものの実際は缶詰のフルーツばかりがはさまった冴えないクリスマスケーキ

 

どれも当たり前に二度と戻れない日々で

当時はそれなりに等身大の悩みを抱えてはいただろうけど

思い出はいつもきれいなんだ

 

ただただ体調の優れない妊婦期間

理不尽に思えたあの人の言葉

見通しの悪いトンネルの中にぽつねんと取り残されたような不安感

きっといつか輝き出す

 

怖がるにせよ楽しむにせよ

前方にしか道はないのだから行くしかない

どのみち“現在のベスト”を模索するしかできないのが人生なのだから

不確定要素をいくつもあげつらって無限の可能性を検討していくよりも

なるべくシンプルに物事を考えようと思った日曜の午前でした

魂は意外と重い

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死ぬほど愛した愛猫・ましろが旅立ってから1年と一ヵ月。

当時のことはブログにも書き残していますが

何度読んでも泣いてしまいます。

nyoki2.hateblo.jp

 

親族の葬式に出たことはあっても看取った経験はなく、数年前に愛犬をなくしていますがこちらも看取ることはできなかったので、ましろの死は本当に印象深く記憶に残っています。

魂が抜けるとは、このことかと。

 

よく、遺体は生前よりも軽く感じるといいますが、それは生きているときは体のどこかしらの筋肉が働いて多かれ少なかれ力んでいるからだそう。亡くなると全身の力が抜けるので、あえて直接的にいうと、まるで人形かぬいぐるみのようになるんです。

 

ましろが死んでしまうとき。

呼吸は苦しそうで、目の焦点は合わず、痙攣を繰り返して、本当に早くらくにしてあげたいと思いながら見守っていました。

なんなら、首をしめようかと(一瞬ですが)考えたほどです。

けれど、延命も安楽死も一切せず、本人の天命をありのままに全うさせると心に決めていたので、ただただ苦しむましろを眺めていることしかできませんでした。

呼吸はやがてしゃっくりのようになって、その間隔がだんだんと空いていく。

「これが最後のしゃっくり…?」

と思うようなものが3回ほどあり、その果てに、ましろの魂がスッと旅立つのがわかりました。

 

ヒッ…と呼吸をして、ましろが動かなくなった。

ましろましろ

私がましろをゆすると、ましろはまた「ヒ、」と身じろぎして、両手両足をぐぐーーーーーーっと伸ばした。まるで寝起きの伸びみたいな感じで、苦しそうにというよりは結構リラックスした感じの、伸び。それでふーーーーーっと息をはいて、スッといなくなってしまいました。

(当時のブログから)

 

魂のいなくなったましろは、本当に抜け殻でした。

普段だったら絶対にやってくれないポーズもさせられちゃうし、眼球を触ってもびくともしない、耳に指を突っ込んでもしっぽをいくらひっぱっても反応しない。

(…今思えばそんなことするなっていう感じなのですが、そのときは「死」のなんたるかを自分なりに一生懸命確認していました)

さっきまでもがいていたのに、名前を呼べば反応したのに、一瞬の旅立ちで、もう残されたからだはぬいぐるみとしか言いようがない、これが死なんだと思いました。

生命って、魂なんだ。

行ってしまったんだと、受け入れるしかない。

もうそこにはましろはいないのだと、理解するほかない、それくらいはっきりと、それは「現実」でした。

 

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死生観と言うほど大げさなものではないかもしれませんが、それ以来私は「魂の重さ」についてよく考えます。

 

人生において、一番大切にしなければならないもの、それが魂だと思うようになって。

 

肉体が生きていても、魂(精神)が死んでいたら意味がない。

 

喜びや痛みって、人と分かち合うことができる範囲ももちろんあるんですけど、でも本当の本当の本当の核心の部分は自分で処理するしかない。

実母であっても痛みを代わってくれたり、思考を100%理解することはできない。

精神は、自分が自分たる部分だから、仮にこちらがどんなに願っても、誰かと共有できる部分ではないと思うんです。

 

私自身、割と破天荒な人生を送っていると思われることが多いのですが、少なくとも自分の「精神」の在り方にだけはしっかりと責任をもっているつもりです。かなり鬱っぽいほうですが、それを誰かのせいにしたことは誓って一度もありません。

 

会社がつらくて辞めたいと相談してくる友人に、「やめて大丈夫だよ」と背中を押しているのは、ある意味無責任かもしれないですが、それでも私の価値観では、まず健全な精神があってからの「人生」。「まずは精神と判断能力を取り戻そう」というのが私の主張です。

ものすごく極端なはなし、同じ自殺でも、判断能力を失っての自殺と、自己判断での自殺では全然違うと思っているので。

 

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今私は妊娠5カ月なのですが、体の中にもう一つの肉体が入っていることよりも、もう一つの魂が入っているということが不思議でならない。

ちょっとSFチックですが、魂ってどこから来て、どこへ行くんだろうとか思ったり。

毎日数え切れないほどの魂が旅立ち、そして宿っているんだなあと思うと、生命の神秘的なものを感じます。

 

ちょっとよしもとばななさん化してきたかもしれない笑

 

うーんでも、こんなことを突然考えたのは、盆入りだからなのでしょうか?

そう考えるとちょっとあれですね、怖いですね笑

ましろがおうちに帰ってきているのかもしれない。今日はちゃおちゅーるでも供えるか。

暑いからアフタヌーンティーはおうちでやらない?

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現実逃避で書いたアフタヌーンティーの一枚絵。

おうちでアフタヌーンティーするなら、市販のもの買ったり、作れるものは作ったり、気軽にやりたいねっていう提案です。

アフタヌーンティーであるあるな意見として「スイーツが多すぎる!セイボリーもっと多くてもよい!」というものがあると思うのですが

おうちヌンだったらそういうのもばっちり反映できるよね!っていう。

 

アフタヌーンティーを考えるうえで個人的に一番楽しいのはやっぱり構成を考えるところ。

家庭料理ふうに言うなら、献立を考える部分。

私は結構これが好きで、食べ合わせとか考えるの楽しいんですよね。作るの自体はほどほどですが。

だから絵描いて終わりが一番楽しい。。。

 

絵にも書いてますが、私の意見ではスコーンは絶対にほかほかのものを後だし派です。

帝国ホテルやマンダリンはほかほかのものを後だししてくれます。

あたたかいスコーンを最初に出すホテルは滅びたほうがいい(言いすぎ)。逆に、どういうこと?セイボリーを食べている間にみるみる冷えていくスコーンを眺めてろってこと?それとも最初にスコーンを平らげて、そのあとぬるくなったセイボリーとスイーツを食べろってこと?ねえ、説明して。コンラッドペニンシュラ、お前のことだぞ!おい!(追いかけまわす)

なお、あたたかくないスコーンを最初から3段皿にのせた状態で出すところも少なくありません。内心「よくサービス料取る気になったね!」って思っていますが、そういうお店の場合「メニューにスコーンはなかった」と脳内処理しています。

 

描いてみたらお茶に関するスペースが一切なくなってしまったので、そのうちアレンジティーだけで一枚描いてみよっと。

 

それにしてもさすがに清書と着色くらいしないと人に見せられる代物ではないか…

次回(があれば)検討します…

2018.2.24

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飲んで寝たからか、映像の停止ボタンを押されたかのようにプツッと目が覚めた。土曜日の朝6時。ここ数週間は3人暮らしをしていて一人の時間というのが恐ろしいほどなかったから、突如ぽっかりと湧いて出たこのポケットのような時間に妙にわくわくする。

 

ところで平日の仕事は10時からで、超ギリギリまで寝ている私の起床時間はおよそ9時である。すると猫たちはいつも先に起きていてリビングでゆったりと外を眺めていたりするから、何時頃どのように起き出しているのだろうとずっと疑問だった。それ自体はいまだによくわからないのだが、少なくとも6時段階ではふたりが身を寄せあってベッドで爆睡しているのだということがわかって、世界の真理にひとつ近づいた気分。そしてふたりの様子をただじーっと暗闇のなかで眺めていたら、家族がいるのはいいものだなあと当たり前のことをじわりじわりと感じた。

 

当たり前のことも、体験を伴うことで改めて理解できるということは、ままある。

書き出してみると本当にばかみたいなのだが、早く寝ると早く起きられるとか、たくさん着込むと暖かいとか、運動すると調子がいいとか、お酒を飲むとコミュニケーションが捗るとか。

しかもこれらは毎回、いい感じに忘れてしまって、ことあるたびに「うわあ早く寝ると早く起きれるんだなあ!」なんて思ったりするのは我ながら少し頭が悪い。

 

そして「好きを仕事にするより得意を仕事にした方が生きるのがラクだから」という理由で書き仕事をしているつもりだったけれど、こういう機会にこうやって自然とPCを開いて日記を書き出すあたり、やっぱり書くことが純粋に好きなんだろうなと思った。なんだかこれも第三者から見たら「そりゃそうだろ」という感じなのだろうけど、自分としてはやはりこれも体験に伴ってしばしば思い出すことのひとつなのである。

 

 

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昨晩はいい意味で毒にも薬にもならない気楽な飲み会だった。ネトゲの友達なので年も環境もばらばらなのだけれど、なんやかんやと2年半ほど知り合いの人々なので謎のまとまりを感じる。

 

ふと思い至って今年のスケジュールを振り返って見ると、プライベートの約束の8割くらいがネトゲの友人だと気づいて戦慄。考えてみれば家でも、ハープを練習しているかゲームをしているかのどちらかなので、随分と自分の生活の軸がゲームにあるものだと素でびっくりしてしまった。

 

ネトゲの友人は基本的に好き。リアルで知り合う人とは、どういう経歴なのかとかどういう道をめざしているのかとか、そういう部分に注目したり話したりすることが多くて個人的には肩が凝る。この歳からバカな話ばかりできる友人に出会う機会はそう多くなくて、だからこそネトゲの友人は結構貴重な存在になったりならなかったりする(どっち)。結局、期待もしなければ失望もしない、そういう距離感で長く付き合えるのが私としてはベストなのだと思う。

 

期待するのは、本当に疲れる。勝手に期待して、勝手に落ち込む。LINEが返ってこないとか、同じだけの好きが返ってこないとか。見返りを求めると大概ろくなことがなくて、できることはただ愛することだけで、そこに愛が返ってくるかどうかはもうコントロールのしようがないということを何度も自分に言い聞かせないといけない。

 

戦略はときに大切というか、現実問題有効だったりするけれど、本質的にはそれも違うなと思う。ここでこう言ったら気が引けるかなとか、ここらで連絡止めておこうとか考えないこともないけれど、とにかく根本では「いかに歪みなく相手を愛せるか」が絶対的に大切で、その言動は筋が通っているかとか、誠実さはあるかとか、そういう部分だけはまがりなりにも担保したいと切実に思う。聖人君子にはなれないし、欲深い自分を取り繕うことはできないけれど、そこさえクリアになっていれば、結果的に別々の道を行くことになったとしても、禍々しいタイプの執着や悔恨を残さずに進んでいけるのではないか。

 

 

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先日、出勤の道すがらにふと、「過去に捨ててきたものをすべて拾い集めてこれたらなあ」などと思った。日々を生きるのに精一杯で、気づけばこんなところまで来ていたけれど、改めて振り返ると失ったものの多さに足がすくみそうになる(から基本的には見ないようにしている)。

 

取捨選択の連続である人生において、何もかも抱えていくというのは限りなく不可能に近いとは思うのだけれど、それでもできるだけ取りこぼしたくないと保守的な感情にとらわれる今日この頃。少なくとも本当に手放してはいけないものは何か見極める審美眼を備えたいし、そうできるよう気張りたいと思う。

 

私の言う「誠実さ」はもはや偶像信仰に近い。つらいことやうまくいかないことを経験して、最終的に「誠実さとか正しさとかが自分を救うに違いない」という考えに至ったわけなのだが、冷静に考えてそれも宙をつかむような話だなと。考えれば考えるほど拠り所がなくなっていく。今日もわら一本にすがって、大海原を漂流していくような感じなので心細い(とは言え、もはやそれが通常営業)。

 

 

すごい、これといった主題もない文章を1時間45分もかけてとっくりと書いた。いい時間になりました。読んでくれた人、ありがとう。

母と病院(転載)

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Facebookが「●年前のこの日」みたいに見せてきてくれるやつで、そういえばこんなの書いたなあというものが出てきた。今見ると妙に味わい深いので転載しておく。

 

ちなみに以下のエントリーを書く1カ月前くらいに書いたもの。

nyoki2.hateblo.jp

 

以下転載。

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母が入院した。ので、お見舞いに行った。
退屈だろうと思って買った「せかいいちのねこ」というヒグチユウコさんの絵本を会社においてきてしまったから渡せなかった。

仕事のあとに行くから20時頃の訪問だけど、なんと見舞いは22時まで可能なのだという。夜なので院内の人通りも少なくて、ナースステーションにはひとりだけナースがいて少ない明かりの中なにやら事務作業をしていたみたいだった。

私が行った時母はものすごい体勢で寝てたので私も隣にもぐりこんでうとうとしていたら看護師さんが「松本さーんお熱はかりますよー」とカーテンをシャッと開けたのでわたしは横になったまま「よろしくお願いします」と言ったら笑われた。マスクをしていて顔がよく見えなかったけれど若くて利発そうな看護師さんだったので好きだなと思った。

目を覚ました母はあっこが痛いここが痛い、だるい、背が5センチ縮んだ、足も縮んで靴がゆるい、体重は5キロ減ったと矢継ぎ早に報告してくる。そうなんだ、そうなんだ、かわいそうに、と言いながら母をなでると「お医者さんがこう言ってたけどママ全然難しいことわかんないし」と言う。そしたら看護師さんが体温計を見て「あれ、お熱ありますね。今朝はなかったのに」と。母はばつが悪そうに「ナンデカナ」と言ってた。

「今日はパパくるかな?」と私が聞いたら「きっと来ないよ」とママが言うので、そうか、来ないのかと思ってたらパパが来た。
パパは(多分)毎日来るつもりだ。
3人でおしゃべりしてたら、なんだか家にいるときよりかえって会話しているかもしれないと思った。

21時をまわったら母は「もう帰ってごはんを食べなさい」と言う。私とパパが帰るのをエレベーターまで母が見送るのがすごく変な感じだった。こういう言い方したらほんとにいろんな人に対して失礼になる可能性があるけど病院っていうのは私にはけだるさと絶望とわずかな希望(つまり死とかそれにつきまとう何か)が壁や床にしみついているような感じに見えてならない。「なんで病院ってこんなにこわいんだろう」って言ったらパパが「そう!?もう慣れちゃってわかんない」って言ったのでそういうもんか・・と思った。

7階から1階に降りるだけのエレベーターは途中で3回もとまって、見舞い帰りの人たちでぎゅう詰めになる。みんなが夜間出口を通って各々の生活へ帰っていくのを意味ありげに見守ってしまった。病院を出て駅まで歩きながら、「ママすごく具合悪そうだね」と言ったら「そうだね、具合が悪いと気力もなくなる。気力がなくなるともっと具合が悪くなる。それが”病気”だからね」と。「小児科病棟の四季とか読むとさ、難病の子供達って悟り開いてるよね。『ママ、僕が死んじゃってもちゃんと元気に生きてね』とか言うよね。なんでかな」と尋ねると「子供はまだ世の中を知らなくて、天使に近い存在だから」と言うので頭のよい人だなと思った。外気に触れながら歩いているとさっき病院で感じた閉塞感と真逆の新鮮な現実を感じて、母を遠い異空間に閉じ込めてきたような気持ちになる。

夜、パパの部屋のドアがあいていた。いつもましろが入らないようにしめきってるのに、これ見よがしに開いている。中をのぞくとましろと一緒に寝てた。パパったらさみしいんだね。でもすまないがましろは連れて行く。
ましろを抱きかかえると、「フグゥ」とおっさんみたいな声を出すのでごめんねって謝った。
お布団に入ったらここは静かでとても大きくて立派な家だなと思って涙がぽろっと出ました。おしまい

暴力で解決するなら、そうしたい。

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努力することよりも諦めることのほうがよほどつらい。

 

ある知り合いが(と書くと、本当は本人のことだろうと思われそうだがこの場合本当に、とある知り合いの話である)、意中の女性といい感じになったにも関わらず最終的に手に入らなかったときに

 

「あなたに好かれるように努力するから、頑張らせてほしい」

 

と申し出ていた。女性側からは「そういうところが怖い」と一刀両断だったわけだが、うーんなんというか、気持ちわかる!!

もう手に入らないという現実を受け入れるよりも、頑張ったらなんとかなるかもしれないという希望にしがみついている方が、一時的に見れば精神的にずっとらくなのだ。

 

けれども本当の苦しみはそのあとだ。

初めはポジティブに頑張る。頑張ればあの子が振り向いてくれるかもしれないと思って研鑽する。けれどSNSに流れてくるのは、自分がいなくても楽しそうな彼女の様子だ。

 

ふとした瞬間に思う。

「このままだめなのかもしれない、どうにもならないのかもしれない」。

じわりじわりと染み出してくる絶望が、気づけば足元をひたひたに濡らしている。

 

お金で愛が買えたら、どんなに楽か。頭を下げて思い通りにできたら、どれだけ楽か。正直、暴力で解決するなら、そうしたい。

 

けれども、決してそうはならない。人の気持ちは人のもの。ありのままで誰にも侵せない。

 

だから執着を最初に手放した方がいい。

諦めるのは怖いけれど、最初からそうした方がいいと私は思う。