死ぬほど愛した愛猫・ましろが旅立ってから1年と一ヵ月。
当時のことはブログにも書き残していますが
何度読んでも泣いてしまいます。
親族の葬式に出たことはあっても看取った経験はなく、数年前に愛犬をなくしていますがこちらも看取ることはできなかったので、ましろの死は本当に印象深く記憶に残っています。
魂が抜けるとは、このことかと。
よく、遺体は生前よりも軽く感じるといいますが、それは生きているときは体のどこかしらの筋肉が働いて多かれ少なかれ力んでいるからだそう。亡くなると全身の力が抜けるので、あえて直接的にいうと、まるで人形かぬいぐるみのようになるんです。
ましろが死んでしまうとき。
呼吸は苦しそうで、目の焦点は合わず、痙攣を繰り返して、本当に早くらくにしてあげたいと思いながら見守っていました。
なんなら、首をしめようかと(一瞬ですが)考えたほどです。
けれど、延命も安楽死も一切せず、本人の天命をありのままに全うさせると心に決めていたので、ただただ苦しむましろを眺めていることしかできませんでした。
呼吸はやがてしゃっくりのようになって、その間隔がだんだんと空いていく。
「これが最後のしゃっくり…?」
と思うようなものが3回ほどあり、その果てに、ましろの魂がスッと旅立つのがわかりました。
ヒッ…と呼吸をして、ましろが動かなくなった。
私がましろをゆすると、ましろはまた「ヒ、」と身じろぎして、両手両足をぐぐーーーーーーっと伸ばした。まるで寝起きの伸びみたいな感じで、苦しそうにというよりは結構リラックスした感じの、伸び。それでふーーーーーっと息をはいて、スッといなくなってしまいました。
(当時のブログから)
魂のいなくなったましろは、本当に抜け殻でした。
普段だったら絶対にやってくれないポーズもさせられちゃうし、眼球を触ってもびくともしない、耳に指を突っ込んでもしっぽをいくらひっぱっても反応しない。
(…今思えばそんなことするなっていう感じなのですが、そのときは「死」のなんたるかを自分なりに一生懸命確認していました)
さっきまでもがいていたのに、名前を呼べば反応したのに、一瞬の旅立ちで、もう残されたからだはぬいぐるみとしか言いようがない、これが死なんだと思いました。
生命って、魂なんだ。
行ってしまったんだと、受け入れるしかない。
もうそこにはましろはいないのだと、理解するほかない、それくらいはっきりと、それは「現実」でした。
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死生観と言うほど大げさなものではないかもしれませんが、それ以来私は「魂の重さ」についてよく考えます。
人生において、一番大切にしなければならないもの、それが魂だと思うようになって。
肉体が生きていても、魂(精神)が死んでいたら意味がない。
喜びや痛みって、人と分かち合うことができる範囲ももちろんあるんですけど、でも本当の本当の本当の核心の部分は自分で処理するしかない。
実母であっても痛みを代わってくれたり、思考を100%理解することはできない。
精神は、自分が自分たる部分だから、仮にこちらがどんなに願っても、誰かと共有できる部分ではないと思うんです。
私自身、割と破天荒な人生を送っていると思われることが多いのですが、少なくとも自分の「精神」の在り方にだけはしっかりと責任をもっているつもりです。かなり鬱っぽいほうですが、それを誰かのせいにしたことは誓って一度もありません。
会社がつらくて辞めたいと相談してくる友人に、「やめて大丈夫だよ」と背中を押しているのは、ある意味無責任かもしれないですが、それでも私の価値観では、まず健全な精神があってからの「人生」。「まずは精神と判断能力を取り戻そう」というのが私の主張です。
ものすごく極端なはなし、同じ自殺でも、判断能力を失っての自殺と、自己判断での自殺では全然違うと思っているので。
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今私は妊娠5カ月なのですが、体の中にもう一つの肉体が入っていることよりも、もう一つの魂が入っているということが不思議でならない。
ちょっとSFチックですが、魂ってどこから来て、どこへ行くんだろうとか思ったり。
毎日数え切れないほどの魂が旅立ち、そして宿っているんだなあと思うと、生命の神秘的なものを感じます。
ちょっとよしもとばななさん化してきたかもしれない笑
うーんでも、こんなことを突然考えたのは、盆入りだからなのでしょうか?
そう考えるとちょっとあれですね、怖いですね笑
ましろがおうちに帰ってきているのかもしれない。今日はちゃおちゅーるでも供えるか。