それでも恋するノリコ

恋愛ブログではありません!

言語について考えていたことを出し切る回

 

ミチョッタミチョッタ〜

復職してからの日々が早い!このまますごい勢いで老けて死んでくんだろうな(って思うのx回目だけど)。

 

最近、というかここ2週間だけ短期決戦でわーっと韓国語頑張ったので言語について考える機会が多かったんだけど、やっぱり言語を学べば学ぶほど母国語最高だなって思う。

 

日本語が他言語と比べてどうこうとかそういう話ではなくて、わたし日本語得意じゃないですか。それが最高だなって。母国語でも自分の言いたいことを100%表現することは難しいんですよ本来。ほかにもたとえば気の利いたことを言ったり、偉人の名言を引用したり、伝わるか伝わらないかぎりぎりのラインまで婉曲な言い回しにしてみたり?そんな言語的な遊びはそれなりの言語能力がないと母国語でも難しいけど自分はそのあたりを楽しめるのでそれが最高だなって再確認しました。

 

逆を言うといくら勉強しても自分が英語や韓国語で自分の言いたいことを余すことなく表現するのは難しいというか無理だと思うし、わたしの場合コミュニケーションにおいては、いかにそれぞれの考えを正確に伝え受け取るかという点を相当重視しているので言語を分つ人たちと一定以上親しく(それは親友とか恋人とかいうレベル感での話だけれど)なるのは無理なのかもしれないと思う。

 

とりあえず一つ伝えたいことは、英語だったらcrazy!!と叫ぶ様なシーンでは韓国語ではミチョッタ(미졌다)!!と言っておけばいい。

 

さて!先日TOPIK(韓国語版TOEIC的な試験)受けてきました。

わたしはびっくりした。こんなに受験者が若い女性ばっかの試験、存在するんだ。

わたしのいた教室にいたっては、リアルに0人でしたよ男性。全体で見ても、本当に1割もいなくて。別に全ての教室を覗いていったわけではないからわからないにはわからないけど、それでも2人見かけただけだもん。

いやーミチョッタ笑

みんなTOPIK受けてどうするんだろ?留学するのかな?っていうかそれしか考えられないけど。

 

それからもう一つ、試験会場は若松河田にある韓国人学校の初等部校舎だったのですが。4年生の使う椅子と机がわたしにぴったりサイズだったよ〜!ってそれはどうでもよいんだけど、

一つ一つの机に生徒の名前が書いてあって、机の中にはお道具箱みたいなものがあって。※念の為、取り出して見たわけではなく、外から見えた物について話しています

小学生の筆跡でハングルで記名してあるのがかわいらしすぎたし、一つ一つの机に人生があるんだなあって思って。親の仕事の都合で日本にいるのかな。わかんないけど、異国で頑張る子供達のことを思うと万感の思いだった。

あと小学校という存在自体、多くの大人にとってはノスタルジックなはずだけれど、それと同時に掲示物は全部ハングルだしいろいろと日本の小学校とは様子が違う部分も多くて(といっても自分の行っていた小学校しか比較対象がないけど)、ノスタルジックなようでノスタルジックじゃない、パラレルワールドかな?みたいな体感もあってとても不思議な体験をすることができた。

で、試験は全然できなかった。

 

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てかさ、何度も同じ話をこするようで恐縮なんですけれども、わたし「ヌン活」って言葉を作った人なんですよ。なんかバズりすぎてNHKでもヌン活って言葉が紹介されちゃったくらい一部界隈に広まったんですけど、普通にアナウンサーが「ヌン活とは、アフタヌーンティー活動のことで、アフタヌーンティーを楽しむことを指す言葉です」とか言ってて。

 

一応、違います、意味。

いろんなアフタヌーンティーをめぐり、違いや感想を自サイト(ブログ)にまとめる活動(自称、比較研究)のことをヌン活といいます。この言葉を作ったわたしが言うんだから間違いない笑。

バズった当時に「ヌン活ってアフタヌーンティーの優雅な雰囲気が台無しになる言葉で嫌い」といったコメントもたくさん見たのですが、わたしとしてはお金も時間もたくさん使う泥臭い研究を指す言葉として作っているのでやっぱりなかなかよい略称なのではないかと。

 

でも本来の意味なんてどうでもよくて、こうして多くの人に受け入れられる形で言葉が変化していくのって、長い歴史の中でたくさん起きてきたことだし、まさに言語は生き物だなと実体験することができたのがすごく興味深かったなって。はい、わたしまだ言語の話をしております。言語はおもしろい。

 

そいえばこないだ初めましての韓国人の方と話したら、普通に語学学習について雑談してただけなのに「もしかして言語学専攻してましたか?言語学を専攻してた友人と同じこと言ってるから」と言われてびっくらポン。

まあ専攻は…音楽でしたが…、単位にならないにも関わらず言語学の授業をとっていたという事実があるので、なんかギョッとしてしまった。

 

その授業は言語学入門みたいな感じで、初学者向けにおもしろいところをかいつまんで話してくれるような感じだったけど、履修してる学生が2人しかいなかったから先生がかわいがってくれて、最後にはランチも行けて楽しかったな。先生元気かな。

 

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でね、授業の中で個人的に一番おもしろかったのは、赤ちゃん・子供がどのように母国語能力を獲得していくかという話だったんですけど。言語学者の夫婦が、我が子の様子を24時間撮影・記録し続けて、言語能力獲得の過程を記録に残していった研究結果があって〜という感じの話で、当時はそれこそマッドサイエンティストだな〜子供にプライバシーなくてなんかかわいそうだな〜なんてことも思ったけど、実際自分も子供ができてみると、彼らの言語習得の過程はなかなか興味深いものがある。とても。

 

言語ってまじで口頭伝承だよなって最近思うわけです。なぜなら子供にはびっくりするくらい自分の(親の)語彙やフレーズ、イントネーションがそのままコピーされる。彼らは耳で聞いて口から発している。そりゃそうだよなあ!

 

うちはシングルマザーなのでなおさらわたしの口調だけが綺麗にインストールされていく感じがある。わたしが子供を叱るときの口調で、長女が次女をしかる。「YouTube見ながらお菓子食べないの!見るのか、食べるのか、どっちかにして!!」と5歳の長女が2歳の次女を詰めていてびびってしまった。他にも「こんなこと言いたくないんだけどさ、」とか「何度も同じこと聞いてごめんね?でもさ、」といった前置きは完全にわたしから移ったもので、5歳にしてはずいぶんmatureなように見えてしまう。

 

一方でどこで身につけてきたの?と思うようなものもある。

たとえば2歳の次女の一人称は「ぼく」で固定されているんだけど、保育園の同じクラスに一人称が「ぼく」の子はいないらしい。パウパトロールにマーシャルというキャラにハマっているから、マーシャルの一人称「ぼく」が移ったのかもしれないけど、とにかく一人称を使うようになってから今にいたるまで一日たりともその一人称がぶれないから、かなり強い意志をもって使っているようで興味深い。ぼくがしっくりきてるんだろうなあ。何回か「”ぼく”じゃなくて“わたし”にしてみる?」と聞いてみたけど興味なさそうなのでそのままにしている。しっくりくる一人称を使ったらいいよね。

 

 

子供を見ていると、自分が幼少期だったころの経験を思い出すことも多い。言語に関する自分の思い出といえば、一番は「さしすせそ」が言えなかったこと。どんなに慎重に「さしすせそ」を言おうとしても「たちつてと」になってしまう。それで兄や両親に爆笑されてつらかった(というほどでもないが多少がっかりした。なお両親が笑ったのはわたしが微笑ましいからでありばかにしたわけではないのだが普通にうざかった)。

それで我が子はどんなもんか思っていたけど、さしすせそは全然最初から言えてた。え、あれメジャーな現象じゃなかったんかい。わたし特有の現象だったんかい!

 

もう一つエピソードがある。

昔、祖母が埼玉県の本庄に住んでいて、家族内で通称「本庄おばあちゃん」だった。でも幼稚園児だったわたしは本庄という地名を知らないから、ずっと「包丁おばあちゃん」だと思っていて。なんで包丁なんだろうとか疑問を挟むこともなく、耳から入ってきた音の通りにそういうものなんだと思って受け入れてしまっていたことがある。

 

子供にはそういうことが起きる!ひらがなを覚えていろいろお手紙を書いてくれる5歳の長女の作品を見ても、「牛乳」を「ぎゅうにゅ」と書いていたり「おめでとう」を「おででとう」と書いているなどあり、耳から入った音をざっくりと“そんな感じのことば”とやんわり受け止めてるんだろうなあと思う。

 

あと韓国語で「イリワ!」というのはこっちへおいで、と子供などに呼びかけるときに使うフレーズなんだけれども、わたしが「イリワ〜」と言っていたら全然意味を知らないはずの2歳が来るようになった(かわいい)。わたしがイリワ〜というときの雰囲気で、呼ばれてるっぽいな、と判断して、行くと物事が進むから、あ、ほんとに呼ばれてたんだな、と思って、イリワというのは呼ばれるときの言葉だ、と繋げていくんだろうな。完全にニュアンスだけで理解している。てか2歳くらいって、YouTube見せてると、気づいたら全然知らない言語の動画を食い入るように見ていたりする。なんでもありだよな。もうニュアンスだけで生きてる年齢なんだ。

でも5歳のほうは、「”イリワ”は韓国語で、意味は”おいで”だから行こう!」と理解しているはず。もう日本語と他の言語の区別がついている年齢。そう考えると3-4歳らへんで言語能力は何段階か上がるようだ。

 

 

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それはそうとして、言語能力は高いからといってただちによいものだとは言えないのが悲しいところ。結局、食材がよくても調理がへただったら全然活かせないし、かりにうまく作れても、相手がばか舌だったら魅力が伝わらないということもありうる。

 

正論であればなんでも言っていいというわけじゃないし、そもそもなにがその人にとっての正論になりうるかというのは、無数の条件分岐の果てにようやく辿り着く結論であって、前提が違うとそれぞれ別の正義をもちながら永遠に平行線な議論をすることになりかねない。

 

一般論として嘘はいけないとされるけれども、いつも本音を言うことが正というわけでもない。どういうときに、誰に、どのように本音をこぼすかは、うまく生きるには戦略的であるべきだし、逆に自分が受け手になったときには、ただ聞くだけがいいのか、肯定してあげるべきか、むしろなんらかのアドバイスをしてあげるべきか、それは状況に応じて素早くするべき判断であるにも関わらず割とクリティカルな選択である。

 

目的意識も重要で、相手方と無難な関係を築いておきたいのであればとりあえずリクヘッジとして本音は隠しておくという選択があるかもしれないし、仲良くなりたい相手にはリスクをとってまずは自己開示をしていくという選択もあるかもしれない。恋人と共に人生の岐路に立っていて、とことんぶつかって最悪破綻してもいい、でもうまくいけば結婚を決断するだけのきっかけになるかもしれないから、あえて全部吐露しようという局面もあるかもしれない。まずは目的を明確にして、どのようなコミュニケーションをどのようにとるかを考える。その「どのように」で初めて言語能力が生かされるんだよなあ!!!

 

だけどそういう方程式を超越して人の懐にすっと入っちゃう人たちがいて、いわゆるコミュ力高い人たちというやつだ。コミュ力高くて思いやりがあって笑顔が炸裂するような人は言語能力破綻してても全然そのへんの人と友達になるし出川イングリッシュとかその極みなんだよな。

 

 

わたしは上述のような打算まみれのコミュニケーション技量はまあまああるほうだと思うけど、前述で定義した「コミュ力」はまったく備えていないので、社交的に見えてまったく社交的じゃないパターンである。てかこんな取り止めもないことを無計画に書き始めて1時間ノンストップで5000字書いてしまう自分が普通にミチダ。でもなんか最近は復職によって自分のペースが乱されていた中で(休職中は休職中でペースが乱れていたが)、あれこれ考えてることを文章にして吐き出したい〜〜〜という欲が結構溜まっていて、それを満たすことができたからやっぱりブログはセルフメディケーション以外のなにものでもない。

 

 

さて、今夜、わたしがいただくのは…猫のもふもふのお腹です。また調子狂ったら戻ってくるよん