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(ネタバレ注意)「すずめの戸締まり」を見て新海監督の元カノ面で鬼考察

 

昨年11月に公開された「すずめの戸締まり」。ついに見ましたよ。本当は初日に観に行きたいくらいの新海監督ファンではあるが、いかんせん乳幼児を二人育てているので、ままならず。3月12日に、なーんの前情報もない状態で見に行きました。てか新海監督のアニメって、本当に予告編では内容の想像がつかない。それがすごいよね。普段テレビとかもまったく見ないので、本当に内容を知らずに行ったんです。

 

それでなんで3月12日という日付になったのか…

ニアミスではあるが、3.11を取り扱った作品だと気づいたときには鳥肌ものだった。知らなかったの、本当に。

私の中で新海アニメを見たらとりあえず感想文…ということになっているので、本当は複数回見てから書きたいところだったけれど、次見に行けるかわからないので一応もう書いてみる。

nyoki2.hateblo.jp

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アニメとしての完成度

まあちょっと…日本のトップクリエイターたちをかき集めて作ったアニメの完成度を語るような立場にはもちろんないのですが、とりあえず3.11という題材を差し引いてどうだったかを最初に書きたいなと。

 

アニメーション表現についてはわたしは門外漢なので、とても綺麗だったとしか書けないけれど、シナリオについては思うところがあって、商業的に大ヒットした最近の3作の中では最高傑作だったと思う。

1:まず主人公たちがよい

君の名は。」では、三葉が代々宮水神社を営む家系で、神的な出来事にもなんらかのつながりがあるんだろうな…と自然に推認させる一方で、瀧くんがなぜあのような不思議な能力を発揮して、三葉の運命の相手となったのかがわからなかった。理由なんてない!二人は結ばれる運命だったのだ!ということなのかもしれないし世の中そういうものかもしれないけど。

今ググってきたら、実際新海監督も「なぜ瀧くんなのかという理由は、一切描かない」と決めていたらしく、その理由は「誰かが誰かと出会うこと、誰かを好きになることには、実際には理由なんてないからです」と出てきたw

いや、それはそうかもしれないけど、時代を超えて誰かと入れ替わることには、理由くらいあってくれ。

もっとひどいのは、「天気の子」である。陽菜さんは、不思議な力をもった鳥居をくぐったことで、「空とつながった」=晴れ女の力を手に入れたという経緯がある。一方、帆高はというと、無害そうに見えて、家出というには大規模すぎる家出をし、しかもその理由も大した動機がなく、たまたま拾った拳銃を乱発する、一般人というにはやばすぎるぶっ飛びBoy(あえてBBと呼ばせていただこう)。BBは、健気な陽菜さんがついた小さな嘘(年齢)すら見抜けず、悪意なくお天気ビジネスをそそのかし彼女に負荷をかけ、最終的に都民を見捨てて陽菜さんを選ぶというセンターオブジアース。

いや、見知らぬ大勢の命より、好きな女を助けたいんだ、というマインド自体は普通にわかるんだけど、新海監督よ…もう少しBBにいいところ作ってやってくれよ。かっこいいところ作ってやってくれよォォォォ

こんな感じでパワーバランスが毎回女性に偏っていたのがここ最近の新海アニメでした。ていうか、昔から新海監督のアニメは女性のほうがなんか強いんだけども。「ほしのこえ」なんて未成年女子が宇宙で何年も戦わされてますからね。

ここにきて「すずめの戸締まり」は…パワーバランスが完璧だった…

ヒーローである草太さんは、「閉じ師」の技と使命を受け継ぎ、自身の学業と並行しながら全国各地に現れる後ろ戸を閉める旅をする生活を送っている。ヒロインのすずめは、3.11の被災者で、4歳だった当時、常世へ迷いこんだことがある。お互いに扉を閉める能力をもち…物理的・現実的に、お互いにお互いがいなくてはならない理由がある状態で旅が始まる。起承転結の転の部分では、物理的にはお互いが一緒にいる理由がなくなるのだけれど、今度は精神的にお互いが不可欠になっているからこそ、今度はすずめ自身が物語を自ら推し進めることになる。

思うに彼らが出会ったこと自体は運命とかいうよりはただの偶然だったんじゃないか。でも、彼らの旅が始まったことには前述の通り、必然性があるのだ。あとからわかることだが、すずめにはミミズが見えること、初めて扉を閉めるシーンですずめが自らの命を顧みずに飛び出したこと、すずめが地震に対して異常に使命感を燃やすこと、すずめが保護者の元からむしろ離れたがっていること、すずめが自身を要石にしてでも大切な人を守りたいと思ったこと、すべてに理由があるので、つじつま厨のわたしには本当にありがたい。やっぱり物語には、それなりの理由がねえと!!!な!!

 

2:アクションへの挑戦がよい

なんか今回、急にアクション要素入ったよね!?

ミミズという敵役、そしてダイジンという敵役(?)がいて、対立関係になっているのは過去初な気が。これまでの自然災害…彗星衝突には「避難」、洪水には「諦め」という選択肢であったが、今回、地震という災害に対して物理的に立ち向かう設定になっていて、冒険活劇というジャンルになっていたなあと。扉まで爆走して、力技で閉めるという行為自体がアクティブだから、今までの「寝てる間に交換」とか「祈って晴れる」とかに比べて、手に汗握る演出でしたね。

廃墟ということで少しホラーっぽい雰囲気、というか戦闘シーンです!っていう感じが演出されていて、音楽も急に尺八が入ってきたりして、ゲームの『大神』のような和風ファンタジー感もありました。わたしだけかもしれないけど、荻原規子さんのファンタジー小説『空色勾玉』を彷彿とさせる部分もあったなあと(黄泉の国に好きな人を迎えに行くんだよね)。何が言いたいかというと、この方向転換は個人的にはすばらしいと思った。冒険だったよ。冒険。

3:音楽がよい

繰り返しになるんだけど、音楽よかったですよね…。今回参加されている陣内一真さんは、「メタルギアソリッド」シリーズの作曲を担当、以降ゲーム、映画およびアニメの音楽作曲に携わってきた方だとか。ねー、うん。ゲーム音楽だよね。アクション要素があるからこういう方呼んだんだろうね。知らんけど。よかったよね。

で、震災の件

いやあのーわたし本当にびっくりしちゃったんですよ、知らなかったので。

序盤で、親と死別したんだなということ、チカとの会話や絵日記を黒く塗りつぶすインサートで、過去に特別なトラウマがあるらしいことがチラチラと描かれていて。でもわたしどんくさくて、それが3.11だということに全然気が付かなかった。というか実在の震災が新海アニメに出てきたこととかなかったし。

わたし本当〜〜〜〜〜に気がつかなくて、車に乗ったあとも行き先は「7時間以上かかるよ」とかしか言わないから、どこだろう…とか思っていて。宮城だか岩手だかに着いたとき本当にびっくりしたし、絵日記が3月11日から黒塗りになっているシーンを見て、本当に座席から転げ落ちそうになった。ここ数年で一番ギョッとした。急にすずめが、物語の中のキャラクターじゃなくて、現実の被災者として見えて。そこから一気にいろいろなことがつながって、頭の中をぐるぐると駆け巡りましたね。

なぜすずめが、ミミズ退治に当事者意識をもって取り組んでいたかがよくわかった。

「死ぬよりも大切な人のいない世界のほうが怖い」(うろ覚え)

と言い切った理由がわかった。

全部ファンタジーとして見ていたけど、急にそれまでのすずめの声は、実際の被災者の本音だというふうに思えた。

 

極め付けにきついのは、クライマックスでついに、17歳のすずめが4歳のすずめに出会うシーン。序盤よりも長い尺で4歳のすずめを見ることができるのだが「お母さんどこ?」と探すだけでも胸が締め付けられるのに、「お母さんを知りませんか!お母さんもわたしのこと探しているはずなんです!」と泣き叫ぶようすには、過呼吸起こすかと思った。なにせ私の娘も4歳。すずめのように、大切な人に先立たれ、自分だけこの世に残され、癒やされない喪失感を今も抱えている人は多いだろう。一方で、そんなふうに大切な人を孤独の中に残して逝かねばならなかった親たち、いろんな人たちの無念はいかほどか。すずめと娘が重なって、そういう結末だけは絶対にいやだ、絶対にそんなことにはなりたくないと心から思うのだが、実際にそのような状況に置かれた人が何千、何万人といる事実。現実。たしかに、「時間」はある程度は苦しみを和らげる効果もあろうが、自分の一部が欠けたような喪失であろうから、それは12年経とうと、この先何十年経とうと、埋まるものではないだろうと改めて思った。

 

そして、キャッチコピーでもある「行ってきます」の重さ。

 

あの日も、いつものように「ただいま」があるはずだった。

一瞬のうちに「日常」は全て波にさらわれ、12年経つ今も更地のまま。

そして二度と故人の「ただいま」を聞ける日は来ない。

 

なぜそんなことが一瞬で起こりうるのか。

日常のなんと儚いことか。果たしてそんなの日常と呼べるのか。

 

当時わたしは21歳で東京在住だったのだが、激しく家が揺れて食器棚からたくさんの皿がこぼれ落ち、ペットを抱えて外に逃げた。その日からニュースでは信じられないような映像が次々流れ、CMはすべて差し替わり、これは現実なのか非現実なのか…そんな不安な日々を過ごしたのだった。

あのときの足元から日常が崩れ落ちていくような感覚、震災の悲惨さ、壮絶さがフラッシュバックして、ああそうだ、あのときすずめのような子がたくさん生まれたんだ。わたしにはすっかり日常が戻っていたけど、すずめと環さんのように心の傷に蓋をして、かさぶたを剥がさないように慎重に生きている人たちがいる。

 

本当に、終盤のシーンは表現が直接的すぎるんじゃないかと思って背筋が凍るような思いもした。だって、扉の向こうには、建物に乗り上げた船の姿があり、12年経った今も業火に見舞われているんだよ…?それってそのまま、きっと、被災者の心の中だ。彼らの気持ちがわかるなんて口が裂けても言えないけど、あのシーンを見て、少なくともその存在をはっきりと感じた。ハッとして気まずかった。被災者はこの映画を見てどう思うんだろう。わたしだったら、わたしに何かの奇跡が起きて新海監督の才能が憑依したとしても、私の自我が少しでも残っていたらこの作品は出せないと思った。少なくとも、冒頭か予告の段階で注意喚起をすると思う。

 

映画が終わったあと、正直トラウマものだと思って、恐る恐るTwitterで検索してみたけど、「おもしろかった〜」とか「感動した!」みたいなコメントが多く、わたしが大げさなのだろうね。わたしゃとてもじゃないけどあの映画を「感動した」と表現することはできない。相当センセーショナルであった。

 

個人的な考察と感想

ま、まあ一旦震災のことは横に置いておいて、この映画には震災のほかにも、「環さんとすずめの関係」「ダイジンとすずめの関係」「すずめと草太さんの関係」などいろいろな要素が絡んでくる。こうした部分をあーだこーだ考察するのが好きなので少し思うところをメモしていきたいと思う。

1:ダイジンは敵か味方か

ダイジンって序盤、ものすっごく薄気味悪く描かれて、こいつやばい!こいつ悪役!!と思わせたあとに、終盤で急に人間味ある感じに描かれるから、視聴者の心をすごく翻弄しますよね。

 

そもそも猫な上に神ですから、人ならざるもので、共感とは程遠いところにある存在なのは間違いないのだが、草太さんが要石になった経緯を見るに、ダイジンもかつては普通の猫だったのではないかと思われる。しかも子猫。当然、要石になりたくてなったわけじゃないんだろう。なにせ要石を抜かれた瞬間にビャーっと逃走し、寸分の躊躇いもなく草太さんに要石の役割を押し付けてますから。そりゃやだよ。あんなところに何百年も刺されていたらさ。

 

そんな自分を解放して、「うちの子になる?」と言ってくれたすずめの存在。それが、純度100%のダイジンの心を、よからぬ方向へ駆り立ててしまった。言うたら、すずめが一番の悪役ですよこれに関しては。すずめの子になるために、要石の役割をそのへんにいた男に渡しただけ。

結局利害が衝突しているだけで、本人に害意自体はないんですよね。声優の子が小学二年生なので、まさにそれくらいの精神年齢とみなすとよいのかもしれない。年不相応の大きな役割を担わされて、結構かわいそうな子なんだ。そう思って見ていると、精神状態によってふっくらつやつやしたり、痩せ細ってボロボロになったりするのもなんとも悲しい。ダイジンもある意味犠牲者、被害者なのだと思ったら言いようもない悲しさに包まれた。最後に、すずめが椅子を抜こうとするのに加勢するシーンがなんとも言えない。親に認められたくて頑張る子供の姿そのものじゃないか。その先にあるのは自己犠牲なのに。ちょっとあのシーンもつらかったな。ダイジンを傷つけ、意図的でないにせよダイジンに再び要石になる決断をさせた…ダイジンを二度絶望させたことに関しては本当にすずめの罪。

 

すっごいどうでもいいけど、ダイジンの薄気味悪さが、『サマータイムレンダ』のハイネに激似だった。剥き出しの悪意。自分の夢や欲望を叶えるために、あどけなく無邪気に他者を死に追いやる。まじで怖いのよこういう存在。見ながらずっと誰かに似てる…と思っていて、終わってから、ハイネだ!と思いました。同じこと思った人、おらんのか〜?

2:サダイジン憑依の謎

ところでサダイジンが環(たまき)さんに憑依するシーン、今思うとサダイジンからすずめへの攻撃だったんだろうな。いまいちどういうことなのか消化できずにずっと考えていたけど。あのシーンさ、ダイジンがサダイジンを威嚇しているじゃん。でもいとも簡単に首根っこを捕まえられちゃって、シーンが変わったあとはくっついて過ごしているんだよね。思うに、ダイジンとサダイジンは親子的な関係性なんじゃないか。要石という重要な役割を放棄して旅に出てしまったダイジンを追いかけて、諌めているのがサダイジン。

 

ダイジンを追ってきたサイダイジンの構図は、すずめを追ってきた環さんの構図とも重なる。そういえばすずめもダイジンに「うちの子になる?」と誘っているけど、環さんもすずめに「うちの子になろう」と誘ったんだよね。すずめがダイジンを突き放したように、サダイジンも環さんに憑依してすずめを突き放した。まあ…神たるサダイジンは、すずめとダイジンのあらゆることをお見通しだったんだろう。あのときすずめは傷ついて、それでダイジンの気持ちにも気づけたんだろうか。

直後に環さんが気絶するのは、サダイジンの憑依から解放された反動なんだろうけど、ストレス性だとしてもわたしは驚かない。子供が何日も帰らなくて、やっと見つけたら知らない男と被災地へ行きたいと。何が…何が…何があったんだと……わたしならもう、それはもう、動揺しますね。仕事も休んできているわけだし。ストレスだよ。かわいそうに。

 

そういえば道中で双子の世話をするシーンがあったのはそういうことか…あれはすずめが環さんを理解するために必要なシーンだったんだ。実際に育児を一瞬でも体験してみて、環さんが自分を育てる上でどんなふうに苦労して、それでも諦めずに育ててきたこと、どんな思いだったかというのを、すずめがやんわりと感じられるように。最初は、シリアスなシーンとの対比で子供でほのぼのさせてんのかなとか、子煩悩な草太さんの描写を入れて魅力付してんのかなとか思ったんだけど。

すずめが「わたし子供無理かも…」って言うのがまた皮肉が効いているよね。わざと言わせてるよねこのセリフ。環さんはやり遂げたんやで…? それが愛でなくてなんなんや、すずめェ。…ただ環さん、あんた、コブ付きって表現はどうなの。もう少し上品な言い方しなさいよ。コブ付きはあかん。

 

3:すずめの成長ストーリー

芋蔓式だけど、こうして振り返ると思春期のすずめの成長っていうのも明確に描かれていたなと。

すずめは草太さんを失ったあたりから被害者マインドが強く出ていて、助けたいと手を差し伸べる人たちにことごとく冷たく当たっていたのがいかにもティーンエイジャーだった。一人でなんでもできる、そんな勘違いをする時期かもしれない。実際は、環さんも芹沢も、まったく敵なんかじゃないし、すずめが憎んでいたダイジンでさえ、すずめを大事に思って導く存在だったわけで。反抗期と恋愛が入り混じったあれこれなんて、見ているこっちが気まずくなるような感じだったけど、カーステレオと芹澤のキャラをうまく使って中和していたのが、シナリオ技術的にすごすぎる。

最終的に、「さっきひどいこと言ったけどそれだけじゃないから!」的な雑なまとめに「うん!!」みたいな感じで雑に和解していたのはちょっと笑った。壊れた自転車鬼こぎしてたからな…やっぱ運動と太陽光は精神によいんだね。

 

実は環さんの内心についてははっきりと答えがあって、それはサントラに収録の「Tamaki」という曲の歌詞に示されています。

歌詞は検索して見ていただけたらと思うけど、冒頭がいきなり

あなたが嫌いだった

で始まるのね。曲の後半では、「あなたが誇りだった」という歌詞があって、愛憎相剋であることが描かれている曲なんだけど。

わたし自身、子供がいなければ…と思うことは年間に300回くらいあって、子供がいる幸せと、子供がいる窮屈さを何度も何度も、永久にループしているタイプの人間だけど、それにしても開口一番「あなたが嫌いだった」という心情は、しっくり来ないんだよな。ムカつくことも、遠くへ行ってほしいと思うことも、なんなら殴り飛ばしたいこともたくさんあるけど、嫌いという感情では絶対にない。

まあ自分が絶対にないからといってみんなもそうとは言い切れないけど。

環さん自身も、姉という唯一無二の存在を失って、その誰にも理解できない喪失感を、唯一共有している相手がすずめなんだよ。ただの親子や、養子ともまた違う。環さんにとって、これ以上決して失くしてはいけない、最後のかけらがすずめだと思う。

小説版ではもう少し環さんの内心も描かれているらしい。時間を見つけて読みたいと思う。

なんにせよ、この尺の映画ですずめの人間としての成長をうまく入れ込んだのはあっぱれ。前作なんか銃を乱射してましたよ?

 

4:いつの間に相思相愛になったのか

無粋なんですけど。恋に落ちるのに理由なんていらない、それはそうなんですけど。草太さんはいつすずめを好きになったの?っていう考察です。

 

そもそも草太さんがすずめに対して恋愛感情を抱いているかどうかは最後までなんともよくわからない。草太さんの恋愛対象が女性なのかどうかもわたしにはもはやわからない。中性的な方ですし、全体的に浮世離れしていて愛だの恋だの言っているイメージが湧かないというのもある。中盤で「死ぬのは怖い…」みたいな独白シーンで、あっ草太さんも死ぬのは怖いんだ…と思うくらいには人間味がなかった。まあ…考えてみたら物語の序盤から最後の最後までほぼ椅子でしたね、彼。人間味がないのも無理はない。

 

話を戻すと、すずめが草太さんを好きになるのはすごく素直だと思うんですよ。初めて親元を離れて外の世界に飛び出して、危険や秘密を共有するシチュエーションはまさに吊り橋心理になるだろうし、草太さんの使命が地震を未然に防ぐものだという点も、すずめからしたら傾倒するに余りある要素である。そもそもイケメンの設定だし。

恋愛感情かどうかは置いておいても、草太さんがすずめを特別視するに至ったのは彼の独白からも確実で、考えられることとしては、

・閉じ師という特殊な役割の秘密を図らずも共有できた

・死への恐怖を和らげる存在だった

の2点なのかなと。1つ目は、閉じ師という危険かつ多くの人を救う仕事をしていながら、誰にも認知されていないということ。草太さんは、「大事な仕事は人からは見えない方がいいんだ」と言っていますが、草太さんだって人間。承認欲求があるはずです。その役割を認め、尊敬してくれるすずめの存在が大きくなったのかなと。

2つ目は、草太さんに突如訪れた、要石になる(人としての死)という悲しい運命。まあ元はといえばすずめが原因だが…徐々に死へ向かっていることに気づきながら、草太さんは成熟した人間なので、それをすずめには伝えず一人で抱え込んでいて。そんな悲劇の中で、明るく旅をともにしてくれるすずめの存在が、いつしか心の拠り所になったのかも。

草太さんは秘密が多いからどうしても人間関係は内向的にならざるを得ないんだと思う。一人で抱え込むタイプ。だからこそ、割とずけずけ土足で入り込んでくる、芹澤みたいな友人が残る。草太さんのまわりには草太さんを明るく照らす人が相性よいんだろう。

 

…で、恋愛感情なのかなあ。あえて帰りに別の交通手段を取るシーンを入れているのは、どういう意図なんだろうなあ。各地の扉を閉めていくという大義名分こそあったが、あえてあのシーンを入れる意味とは。思うんだけど、君は家に帰りなさいと言いつつ、(でも今椅子だしなあ…やっぱすずめさんに手伝ってもらうしかない…)と結論づけた手前、環さんと同乗するのが極めて気まずかったのかもしれないね。恋愛感情の有無はわからないね。別れ際に「逢いに行くよ、必ず」と言うのが、「逢いに行くよ、ヤックルに乗って!」を彷彿とさせますね。させないか。

まあでもすずめも意外とちゃっかりしているというか、キスしたければしちゃう感じの性格なので、草太さんがはっきりしなくても自然と一緒に。押しかけ女房的な感じで。ニコイチになっている未来は想像できますね。あ〜白米が進む〜

 

5:残る謎

めちゃくちゃ疑問なんですけど、「君の名は。」と「すずめの戸締まり」のビジュアルが激似なのはなぜ?

公式ビジュアルのスクリーンショット

意図的としか思えない。それに「すずめの戸締まり」のビジュアルでは夕暮れと昼の境目に彼らがいて、まるでそこは「君の名は。」でいう片割れ時(黄昏時)のよう。常世と片割れ時は概念が共通しているのかも。他にも考察あったら教えてください。

 

新海アニメを振り返ってみる

ここからは新海監督の元カノ面でちょっと語っちゃいます。ごめんなさい。

新海アニメって昔から男女が想い合いつつ現実のさまざまな要因ですれ違って、結局は別の道をいく…みたいな展開が多かったので、「君の名は。」で最後二人がお互いに振り返って声をかけたシーンでは、おおっと思ったものです。

やっぱり商業・王道は再会はマストなんでしょうね…。

ほしのこえ」では物理的距離・時間的距離・心理的距離のトリプルアタックで隔たれ、最後は電波にも阻まれとうとう二人は出会えない。「雲のむこう、約束の場所」では出会えるんだけど、世界平和を犠牲にしていて、その点「天気の子」に通ずるものがある。

故人を追っていくという意味では「星を追う子ども」と「君の名は。」に共通点があるけど、前者では「喪失を抱えて生きるしかない」という、妥当というか道徳的な結論だが、後者では時空をも飛び越えて、運命は自分たちの手で変えられる!!!という少年ジャンプ的な展開になっている。

お互いに気持ちがあることを認識しながら、別の道を歩み始め、いつか逢いにいく…と心に誓って終わる「言の葉の庭」に対して、実際に会いに行って「おかえり!」まで気持ちよく描かれている「すずめの戸締まり」。

会えない系アニメが会える系アニメに行き着いた。

でも、本当は会えないんですよ。「君の名は。」で会えたのは、片割れどきに時空を超えるという超展開があったからだし、「すずめの戸締まり」では、本来なら辿り着けないはずの常世に、特殊事情で入れたからだし。本当だったら今まで通り、運命に隔たれて二度と交われないはずだった。本当だったら意思の強さだけではどうこうできない、そういう別れのはずだし、世の中にはそういう別れが星の数ほど溢れているという現実と悲哀を、新海監督は昔から描いてきた。

 

わたしたちの人生ってアニメ映画みたいに劇的じゃないし、恋愛事情もおおむねドロドロでこんなふうにキラキラしていることばかりじゃないけど、ふと足を止めると、自分が手放してきたもの、二度と会えない人、伝える機会を失った言葉が信じられないほどたくさんある。新海アニメを見ると必ず思い出すのは、18年前にゲーム友達と、彼のワンルームアパートで徹夜で新海アニメ見たあの夜(※プラトニックです、まじでアニメ見ただけ)。連絡先も知らないし今どうしているのかさっぱりわからないけど、当時の自分には大冒険で、アニメもジブリくらいしか見たことなくて、あの狭い部屋(失礼)の小さいPCの画面で見た鉄塔の風景(雲のむこう〜)が忘れられないわ。もはや名前すら思い出せないけど、あの人も見てんのかな最近の新海アニメ。たしか、大学卒業してどっかの地元に帰ったんじゃなかったか…昔はクラウドなんてなかったから連絡先もさっぱりわからんし、二度と連絡取れないかと思うと急に連絡取りたくなるな…残念ながら本名にいたっては忘れたのではなく知りもしない。

 

まあとにかく一度手放すともう二度と手元に戻ってこないものは多い。だけど自分の人生においてすべての荷物を常に持ち運ぶことはできないのでどうしても取捨選択が生じてくる。新海アニメを見るといつもそんなようなことを思う。

 

気づけば駄文を1万字以上も書いてしまった。誰が見るでもないだろうけど、コメント大歓迎なのでよろしく。笑