それでも恋するノリコ

恋愛ブログではありません!

言語について考えていたことを出し切る回

 

ミチョッタミチョッタ〜

復職してからの日々が早い!このまますごい勢いで老けて死んでくんだろうな(って思うのx回目だけど)。

 

最近、というかここ2週間だけ短期決戦でわーっと韓国語頑張ったので言語について考える機会が多かったんだけど、やっぱり言語を学べば学ぶほど母国語最高だなって思う。

 

日本語が他言語と比べてどうこうとかそういう話ではなくて、わたし日本語得意じゃないですか。それが最高だなって。母国語でも自分の言いたいことを100%表現することは難しいんですよ本来。ほかにもたとえば気の利いたことを言ったり、偉人の名言を引用したり、伝わるか伝わらないかぎりぎりのラインまで婉曲な言い回しにしてみたり?そんな言語的な遊びはそれなりの言語能力がないと母国語でも難しいけど自分はそのあたりを楽しめるのでそれが最高だなって再確認しました。

 

逆を言うといくら勉強しても自分が英語や韓国語で自分の言いたいことを余すことなく表現するのは難しいというか無理だと思うし、わたしの場合コミュニケーションにおいては、いかにそれぞれの考えを正確に伝え受け取るかという点を相当重視しているので言語を分つ人たちと一定以上親しく(それは親友とか恋人とかいうレベル感での話だけれど)なるのは無理なのかもしれないと思う。

 

とりあえず一つ伝えたいことは、英語だったらcrazy!!と叫ぶ様なシーンでは韓国語ではミチョッタ(미졌다)!!と言っておけばいい。

 

さて!先日TOPIK(韓国語版TOEIC的な試験)受けてきました。

わたしはびっくりした。こんなに受験者が若い女性ばっかの試験、存在するんだ。

わたしのいた教室にいたっては、リアルに0人でしたよ男性。全体で見ても、本当に1割もいなくて。別に全ての教室を覗いていったわけではないからわからないにはわからないけど、それでも2人見かけただけだもん。

いやーミチョッタ笑

みんなTOPIK受けてどうするんだろ?留学するのかな?っていうかそれしか考えられないけど。

 

それからもう一つ、試験会場は若松河田にある韓国人学校の初等部校舎だったのですが。4年生の使う椅子と机がわたしにぴったりサイズだったよ〜!ってそれはどうでもよいんだけど、

一つ一つの机に生徒の名前が書いてあって、机の中にはお道具箱みたいなものがあって。※念の為、取り出して見たわけではなく、外から見えた物について話しています

小学生の筆跡でハングルで記名してあるのがかわいらしすぎたし、一つ一つの机に人生があるんだなあって思って。親の仕事の都合で日本にいるのかな。わかんないけど、異国で頑張る子供達のことを思うと万感の思いだった。

あと小学校という存在自体、多くの大人にとってはノスタルジックなはずだけれど、それと同時に掲示物は全部ハングルだしいろいろと日本の小学校とは様子が違う部分も多くて(といっても自分の行っていた小学校しか比較対象がないけど)、ノスタルジックなようでノスタルジックじゃない、パラレルワールドかな?みたいな体感もあってとても不思議な体験をすることができた。

で、試験は全然できなかった。

 

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てかさ、何度も同じ話をこするようで恐縮なんですけれども、わたし「ヌン活」って言葉を作った人なんですよ。なんかバズりすぎてNHKでもヌン活って言葉が紹介されちゃったくらい一部界隈に広まったんですけど、普通にアナウンサーが「ヌン活とは、アフタヌーンティー活動のことで、アフタヌーンティーを楽しむことを指す言葉です」とか言ってて。

 

一応、違います、意味。

いろんなアフタヌーンティーをめぐり、違いや感想を自サイト(ブログ)にまとめる活動(自称、比較研究)のことをヌン活といいます。この言葉を作ったわたしが言うんだから間違いない笑。

バズった当時に「ヌン活ってアフタヌーンティーの優雅な雰囲気が台無しになる言葉で嫌い」といったコメントもたくさん見たのですが、わたしとしてはお金も時間もたくさん使う泥臭い研究を指す言葉として作っているのでやっぱりなかなかよい略称なのではないかと。

 

でも本来の意味なんてどうでもよくて、こうして多くの人に受け入れられる形で言葉が変化していくのって、長い歴史の中でたくさん起きてきたことだし、まさに言語は生き物だなと実体験することができたのがすごく興味深かったなって。はい、わたしまだ言語の話をしております。言語はおもしろい。

 

そいえばこないだ初めましての韓国人の方と話したら、普通に語学学習について雑談してただけなのに「もしかして言語学専攻してましたか?言語学を専攻してた友人と同じこと言ってるから」と言われてびっくらポン。

まあ専攻は…音楽でしたが…、単位にならないにも関わらず言語学の授業をとっていたという事実があるので、なんかギョッとしてしまった。

 

その授業は言語学入門みたいな感じで、初学者向けにおもしろいところをかいつまんで話してくれるような感じだったけど、履修してる学生が2人しかいなかったから先生がかわいがってくれて、最後にはランチも行けて楽しかったな。先生元気かな。

 

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でね、授業の中で個人的に一番おもしろかったのは、赤ちゃん・子供がどのように母国語能力を獲得していくかという話だったんですけど。言語学者の夫婦が、我が子の様子を24時間撮影・記録し続けて、言語能力獲得の過程を記録に残していった研究結果があって〜という感じの話で、当時はそれこそマッドサイエンティストだな〜子供にプライバシーなくてなんかかわいそうだな〜なんてことも思ったけど、実際自分も子供ができてみると、彼らの言語習得の過程はなかなか興味深いものがある。とても。

 

言語ってまじで口頭伝承だよなって最近思うわけです。なぜなら子供にはびっくりするくらい自分の(親の)語彙やフレーズ、イントネーションがそのままコピーされる。彼らは耳で聞いて口から発している。そりゃそうだよなあ!

 

うちはシングルマザーなのでなおさらわたしの口調だけが綺麗にインストールされていく感じがある。わたしが子供を叱るときの口調で、長女が次女をしかる。「YouTube見ながらお菓子食べないの!見るのか、食べるのか、どっちかにして!!」と5歳の長女が2歳の次女を詰めていてびびってしまった。他にも「こんなこと言いたくないんだけどさ、」とか「何度も同じこと聞いてごめんね?でもさ、」といった前置きは完全にわたしから移ったもので、5歳にしてはずいぶんmatureなように見えてしまう。

 

一方でどこで身につけてきたの?と思うようなものもある。

たとえば2歳の次女の一人称は「ぼく」で固定されているんだけど、保育園の同じクラスに一人称が「ぼく」の子はいないらしい。パウパトロールにマーシャルというキャラにハマっているから、マーシャルの一人称「ぼく」が移ったのかもしれないけど、とにかく一人称を使うようになってから今にいたるまで一日たりともその一人称がぶれないから、かなり強い意志をもって使っているようで興味深い。ぼくがしっくりきてるんだろうなあ。何回か「”ぼく”じゃなくて“わたし”にしてみる?」と聞いてみたけど興味なさそうなのでそのままにしている。しっくりくる一人称を使ったらいいよね。

 

 

子供を見ていると、自分が幼少期だったころの経験を思い出すことも多い。言語に関する自分の思い出といえば、一番は「さしすせそ」が言えなかったこと。どんなに慎重に「さしすせそ」を言おうとしても「たちつてと」になってしまう。それで兄や両親に爆笑されてつらかった(というほどでもないが多少がっかりした。なお両親が笑ったのはわたしが微笑ましいからでありばかにしたわけではないのだが普通にうざかった)。

それで我が子はどんなもんか思っていたけど、さしすせそは全然最初から言えてた。え、あれメジャーな現象じゃなかったんかい。わたし特有の現象だったんかい!

 

もう一つエピソードがある。

昔、祖母が埼玉県の本庄に住んでいて、家族内で通称「本庄おばあちゃん」だった。でも幼稚園児だったわたしは本庄という地名を知らないから、ずっと「包丁おばあちゃん」だと思っていて。なんで包丁なんだろうとか疑問を挟むこともなく、耳から入ってきた音の通りにそういうものなんだと思って受け入れてしまっていたことがある。

 

子供にはそういうことが起きる!ひらがなを覚えていろいろお手紙を書いてくれる5歳の長女の作品を見ても、「牛乳」を「ぎゅうにゅ」と書いていたり「おめでとう」を「おででとう」と書いているなどあり、耳から入った音をざっくりと“そんな感じのことば”とやんわり受け止めてるんだろうなあと思う。

 

あと韓国語で「イリワ!」というのはこっちへおいで、と子供などに呼びかけるときに使うフレーズなんだけれども、わたしが「イリワ〜」と言っていたら全然意味を知らないはずの2歳が来るようになった(かわいい)。わたしがイリワ〜というときの雰囲気で、呼ばれてるっぽいな、と判断して、行くと物事が進むから、あ、ほんとに呼ばれてたんだな、と思って、イリワというのは呼ばれるときの言葉だ、と繋げていくんだろうな。完全にニュアンスだけで理解している。てか2歳くらいって、YouTube見せてると、気づいたら全然知らない言語の動画を食い入るように見ていたりする。なんでもありだよな。もうニュアンスだけで生きてる年齢なんだ。

でも5歳のほうは、「”イリワ”は韓国語で、意味は”おいで”だから行こう!」と理解しているはず。もう日本語と他の言語の区別がついている年齢。そう考えると3-4歳らへんで言語能力は何段階か上がるようだ。

 

 

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それはそうとして、言語能力は高いからといってただちによいものだとは言えないのが悲しいところ。結局、食材がよくても調理がへただったら全然活かせないし、かりにうまく作れても、相手がばか舌だったら魅力が伝わらないということもありうる。

 

正論であればなんでも言っていいというわけじゃないし、そもそもなにがその人にとっての正論になりうるかというのは、無数の条件分岐の果てにようやく辿り着く結論であって、前提が違うとそれぞれ別の正義をもちながら永遠に平行線な議論をすることになりかねない。

 

一般論として嘘はいけないとされるけれども、いつも本音を言うことが正というわけでもない。どういうときに、誰に、どのように本音をこぼすかは、うまく生きるには戦略的であるべきだし、逆に自分が受け手になったときには、ただ聞くだけがいいのか、肯定してあげるべきか、むしろなんらかのアドバイスをしてあげるべきか、それは状況に応じて素早くするべき判断であるにも関わらず割とクリティカルな選択である。

 

目的意識も重要で、相手方と無難な関係を築いておきたいのであればとりあえずリクヘッジとして本音は隠しておくという選択があるかもしれないし、仲良くなりたい相手にはリスクをとってまずは自己開示をしていくという選択もあるかもしれない。恋人と共に人生の岐路に立っていて、とことんぶつかって最悪破綻してもいい、でもうまくいけば結婚を決断するだけのきっかけになるかもしれないから、あえて全部吐露しようという局面もあるかもしれない。まずは目的を明確にして、どのようなコミュニケーションをどのようにとるかを考える。その「どのように」で初めて言語能力が生かされるんだよなあ!!!

 

だけどそういう方程式を超越して人の懐にすっと入っちゃう人たちがいて、いわゆるコミュ力高い人たちというやつだ。コミュ力高くて思いやりがあって笑顔が炸裂するような人は言語能力破綻してても全然そのへんの人と友達になるし出川イングリッシュとかその極みなんだよな。

 

 

わたしは上述のような打算まみれのコミュニケーション技量はまあまああるほうだと思うけど、前述で定義した「コミュ力」はまったく備えていないので、社交的に見えてまったく社交的じゃないパターンである。てかこんな取り止めもないことを無計画に書き始めて1時間ノンストップで5000字書いてしまう自分が普通にミチダ。でもなんか最近は復職によって自分のペースが乱されていた中で(休職中は休職中でペースが乱れていたが)、あれこれ考えてることを文章にして吐き出したい〜〜〜という欲が結構溜まっていて、それを満たすことができたからやっぱりブログはセルフメディケーション以外のなにものでもない。

 

 

さて、今夜、わたしがいただくのは…猫のもふもふのお腹です。また調子狂ったら戻ってくるよん

MBTIおもしろすぎてINFJが自分語りする雑記

超久しぶりにブログ書こうと思って開いて過去の記事読んでたら1時間溶けてしまった。それどころかいろいろとダメージ喰らってしまった。

過去の自分…なかなかのメッセージ寄越すじゃねえか。

本当に過去の自分を甘く見るのやめよう、なぜかはわからないが過去の自分は基本的に今の自分より先の思考に到達している。なぜなの????

 

さて思うに最近調子が出ないのはブログを書いていないからではないでしょうか。

なんやかんや言うてブログを書くことは自分にとってセルフカウンセリング的な側面があり、自分で思っている以上にいい感じの作業なのですが、それと同時にだいぶ腰が重い作業でもあり、ある程度まとまった時間も必要だったりするので、なかなかできていないのが実情です。

結局1年ぶりなんだけどさ、1年に一回のブログって怖いよね。更新のたびに書き手が加齢しているブログ怖くない?

 

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さて今日はMBTIについて書きたいと思います。

元々人間観察や分析が好きな自分なのでMBTIおもしろすぎやろってなるのは自然な流れなのですがなんやかんや複雑で理解に時間がかかってしまいました。本稿では省略してますが心理機能とかの要素が非常に興味深く…知れば知るほど奥深いです。

 

まず念のため、MBTIとは何か?から軽く概観していきたいのですが、一言でいうと性格診断です。4つの指標をそれぞれ2タイプに分類(1 外向(E)or内向(I)、2 感覚(S)or直観(N)、3 思考(T)or感情(F)、4 判断(J)or認識(P))することで、16パターンの性格タイプに分類します。

 

分類するといっても当然ながらすべての人類を16パターンに当てはめるというのは無理があり、あくまで傾向であるということ、診断をするタイミングやコンディションによって結果は大きく変わりうるというのが前提です。また、簡易診断であってもそれぞれにパーセンテージが出るので、その結果もかなり重要であると考えるとよいと思います。

 

わたしの結果は、複数回の診断結果や自分で勉強した内容をふまえてもINFJ-A(提唱者)で確定だと思います。

ここからはただの自分語りなのですがINFJの女性の記録としてもしかしたら第三者にも役立つかもと思いつつ、MBTIネタは継続的に数字取れるそうなのでやってみます、別に数字求めてないけど(自己矛盾)。

 

INFJ女の分解

I(内向型)

I(内向型)vs E(外向型)

あくまで自分の話で恐縮ですがIについては顕著なパーセンテージで出ており、85%以上くらい出ていたと思います。

わかりやすい特徴として、基本的に大勢でわいわいするより一人の時間を好みます。設問の中では、疲れたときに一人と大勢どっちのほうが落ち着く?みたいな感じで出てきますが、わたしは疲れていてもいなくても基本的に一人でなんでも完結させるタイプです。かといって大勢が苦痛かというとそうでもなく、大勢でいたとしても内心は一人で過ごしているので(?)、つまり誰かに合わせなきゃとか空気読まなきゃという気負いがあまりないので実態的に一人で過ごしているのと大差ないという感じで、会社の飲み会とかも特に苦じゃなく行けるタイプです。むしろ普段話さない人の言動を眺めているのは楽しい。

あと、本格的にMBTIを学んだわけではないので軽く持論にはなってきますが、Iの特徴として内省の時間が長いというのもあるのではないかと思います。

ブログで自分語りするあたりまさにという感じで、自分の内面と向き合って自分はこうだ、こうではない、自分のあるべき姿はこうだ、なりたい姿はこうだ、とぐるぐる思考しては鬱っぽくなるところが、我ながらすごくIっぽいと思います。

Eの人はもっと外に外にエネルギーが向いていて、気持ちもうまく外に発散できているイメージです。心が外に開かれているので風通しがよいという感じでしょうか。

…と言いつつ、実は友人のほとんどがIなのでEの人がどういう思考でどういう行動をとるのかわたしの中でデータが少なく、まだ体系化して整理できていないのが非常に悔しいところです。Eの人とお近づきになってその行動原理を学ばせていただきたい。

 

N(直感型)

N(直感型)vs S(感覚型)

個人的にMBTIの中でここが一番理解・説明ともに難しいところです。いろいろ調べた限りでは、Nは想像力豊かで理想主義的な部分があるらしく、Sは現在思考で、現実主義(地に足がついているイメージ?)らしい

いやーわたしかなり現実主義だけど…とか思うんですが、おもしろいと思ったのは、次の設問について回答の傾向が紹介されていて、

Q :飛行機に乗る前考えることは?

S:機内食何が出るかな…

N:もし飛行機が落ちたら…テロされたら…

うわーーーーーーーーーーー笑

わたしNです

 

Q:ドラマを見るとき

S:ストーリーに入り込むor俳優さんかっこいいな~

N:どうしてこういう演出ができるのかな?

うわーーーーーーーーーーーーNだわ…

 

Q:歌を聴くとき

S:歌詞よりメロディー

N:メロディーより歌詞

うわーーーーーーーーーーーーーーーーーー(以下略)

 

まあとにかくわたしはNですね。

でもこれ見て思ったけどSの人若干苦手かもしれない笑

普段の雑談というか友人付き合いというくらいの温度感ではここの違いが一番ちぐはぐさを生じさせそう。なんか、一対一での付き合いならN同士(もしくはS同士)がよくて、グループでの付き合いならごちゃまぜのほうが、それぞれツッコミあったりして楽しく過ごせそうなイメージじゃないですか?

一緒に映画を見たあとにあれこれ語り合うのであればN同士がよさそう。

まあわたしはNかつIなので、語り合うより自分で悶々と考えてブログに吐き出すのが好きなのですが…EN同士で映画見たらそのあとキャスであれこれ語ったりできそうですよね。

 

F(感情型)

F(感情型)vs T(思考型)

Fは客観的な事実より主観的な感情を優先するタイプ。Tは論理的・合理的で客観的な事実を重要視するタイプ。

 

これだけ見るとわたし完全にTだと思うんですけど、というのもわたしって口癖が「それは合理性がない」「合理的に考えれば〜〜」だし、そもそもずっと理系だし、論理的に筋が通っていないことについてはなかなか腹落ちしないという性格でもあります。

 

だがしかし、例にならって設問例を見てみるとしよう。

 

Q:あの人、あなたのこと嫌いらしいよ

T:なんで私のこと嫌いなんだろう?

F:私、なにかしたかな?

うわーーーーーーーーーーーーーーーFですわ

 

Q:憂鬱で、髪型変えたんだ

T:どんな髪型にしたの?写真送って

F:何かあったの?なんで憂鬱なの?

うわうわうわーまじで? え、待って…Tの人存在する…?ってくらい信じられないんだけど?

 

Q:頭良いから勉強しなくてもいつも良い結果なんだね!

T:ありがとう!嬉しい!

F:悔しい。毎回一生懸命勉強してるのに!

Fすぎて草。

はい、Fですわたし。てかごめん、わたしに言わせたらTの人若干サイコパス味すら感じる。なんかわたし思ったんですけどやっぱり自分の脳内に住んでるから「自分の当たり前」がかなり基準になってしまっていてそうじゃない思考回路への理解がなさすぎたかも。

今思えばあの人はTなんだろうなっていう人から「なんで?なんで?」って質問攻めにされてストレス感じたこともあったな。コンサル業界にはTが多いかもしれない…

非常に杓子定規的なコメントになってしまいますが、ここでいうFの性質が、結構「女性脳」と通称される部分なのかもしれないと思いました。察してほしいというか察せるだろ?みたいな部分。繊細さとも表現できるのかな。

 

J(判断型)

J(判断型)vs P(知覚型)

ここはもう疑念なくJの自覚あり。Jはさっさと白黒つけたいタイプ。計画的で、ゴールを決めて逆算してタスクをこなしていく。夏休みの宿題を溜めたこと、ありません。早くやりすぎるでもなく、毎日⚪︎ページと決めてコツコツこなせるタイプ。

Pの人は、最終日に間に合えばなんでもいいっしょ!という感じらしい。

今度遊ぼう!というシーンでも、Jはいつ、どこで、何する?という感じで、Pはとりあえず遊ぼう!という感じらしいです。

個人的な感想だけど、ここが食い違っているカップルは結婚フェーズで難航するイメージがある。

おおらかでどんどん引っ張っていけるJと素直なPだったら相性よさそうだけど、友人の悩みとか聞いてると、友人がJできっとパートナーはPなんだろうな…と思うことがしばしばある。

 

INFJ女の特徴を挙げてみる

おもしろいところなのですが、わたしの友人のINFJ率は異常。身近な人が軒並みINFJ。すごくないですか?類は友を呼ぶとはこのこと。INFJでなくとも、INJが共通していたりINFが共通していたりと、分類的にはかなり近いです。

カテゴライズする意図はないのですが、仮に検索からここに辿り着く人がいるとしたらINFJ女の特徴を少しでも知りたいというニーズがあると思うので、私自身と私のまわりに集まるINFJ女たちの共通点(の中でもMBTI診断の内容に沿うもの)を列挙してみます。

 

・人間関係は狭く深く

これは確実だと思います。INFJはI型の中では社交的な部類で友達などすぐに作れるタイプですが、どこか他者と一線を引くというか、一歩下がって見ているところがあり、ドライな部分があると思います。バイブスの合う人とは深く付き合うようになるのですが、そのような人を探すというよりは自然と惹き合う感じに近く、背伸びせずにナチュラルに親友を見つける才能があると我ながら思います(そしてINFJが集まる)。

そして一度できた友人を大事に大事にするのも特徴だと思います。マメでよく気が付くので何年も会えていないような相手でも毎年誕生日には忘れずLINEをしたり、相手がつらいときには駆け付けたりと愛情深い側面があると思います。

 

・言語コミュニケーションが大好き

言語化能力が高く、言語コミュニケーションを大事にします。映画など作品を見ると感想をたくさん持つので、INFJ同士で出かけるとひたすら感想を話し合うことができ、時間が一瞬で溶けます。考えていることでも見聞きしたものでもなんでも言語化してアウトプットすることが好きなので、なんか小難しいこと言い出したな…と辟易せずに付き合ってくれる人が好きです。

 

・正直、多少心が読める

手前味噌ですが他者の感情が読めるほうだと思います。あそこ恋愛感情あるんだろうな、とかあの人はあの人苦手そうだなとか、あの人はこういうことで損してそうだなとか、目視できるもの(表情や空気感、目の動きなど)から、人々の感情が手に取るようにわかることがあります。人と接しているときに受け取っている情報量が多いので、今週友達とたくさん会えたな〜みたいなときは想定よりもどっと疲れを感じることが多いです。予定詰めすぎて自爆するのはあるあるかと…。

相手の求める言動がわかってしまうことが多いと思います。わかった上でどこまでやるかを淡々と考えています。すべて戦略と根拠のある言動だと思っても差し支えないと思います。

 

・他者を優先する

自分で言うのもほんと恐縮なんですけど本当に愛情深いタイプじゃないかと思います…。他者が何かを求めたら基本的に応えたいと思います。それおいしそう〜とか言われたら、お食べ!って思う(実際に差し出すかどうかは相手との距離感・関係性次第にはなるけど)。あと、動物飼うの得意だと思います。猫がお腹空かせてると思ったらどんなに楽しそうな予定でも断って帰ります。そういう意味では育児も向いている…のか…?

 

INFJ女…という分類は大きすぎる

書いてみたものの。

友人にINFJが多いと書いたものの、実際のところ友人と接していると、結局わたしたちって…だいぶ違うよね? とも思います(お互いにそこの意見は合致)。共通点がある分、むしろ差異が際立つまである。わたしのほうがメンタルは弱いな〜とか、わたしのほうが柔軟性はあるな〜とか、日々いろんなことを思います。

結局この性格診断は思考や習慣のクセであって、それがどのように表出するかなどは地頭や経験、年齢、家族構成などによっても変わりそうですし、それこそ大きい意味にはなるけど「価値観」というものもMBTIの射程外かと思いました。価値観って経験の集大成みたいなところがあると思うので、それぞれ歩んできた人生によって変わりますよね。たとえばテロを阻止する映画があるとして、テロリストにもFBIにもそれぞれINFJはいるだろって話です(知らんけど)。

 

とはいえMBTIめちゃくちゃおもしろいです。

MBTIの示す人物像という偶像を追うのはいただけませんが、エンタメとして消費する分には十分上質かと。

最終的に5200字超えてるの草。それじゃまたね〜!(一年後w)

 

(ネタバレ注意)「すずめの戸締まり」を見て新海監督の元カノ面で鬼考察

 

昨年11月に公開された「すずめの戸締まり」。ついに見ましたよ。本当は初日に観に行きたいくらいの新海監督ファンではあるが、いかんせん乳幼児を二人育てているので、ままならず。3月12日に、なーんの前情報もない状態で見に行きました。てか新海監督のアニメって、本当に予告編では内容の想像がつかない。それがすごいよね。普段テレビとかもまったく見ないので、本当に内容を知らずに行ったんです。

 

それでなんで3月12日という日付になったのか…

ニアミスではあるが、3.11を取り扱った作品だと気づいたときには鳥肌ものだった。知らなかったの、本当に。

私の中で新海アニメを見たらとりあえず感想文…ということになっているので、本当は複数回見てから書きたいところだったけれど、次見に行けるかわからないので一応もう書いてみる。

nyoki2.hateblo.jp

nyoki2.hateblo.jp

 

アニメとしての完成度

まあちょっと…日本のトップクリエイターたちをかき集めて作ったアニメの完成度を語るような立場にはもちろんないのですが、とりあえず3.11という題材を差し引いてどうだったかを最初に書きたいなと。

 

アニメーション表現についてはわたしは門外漢なので、とても綺麗だったとしか書けないけれど、シナリオについては思うところがあって、商業的に大ヒットした最近の3作の中では最高傑作だったと思う。

1:まず主人公たちがよい

君の名は。」では、三葉が代々宮水神社を営む家系で、神的な出来事にもなんらかのつながりがあるんだろうな…と自然に推認させる一方で、瀧くんがなぜあのような不思議な能力を発揮して、三葉の運命の相手となったのかがわからなかった。理由なんてない!二人は結ばれる運命だったのだ!ということなのかもしれないし世の中そういうものかもしれないけど。

今ググってきたら、実際新海監督も「なぜ瀧くんなのかという理由は、一切描かない」と決めていたらしく、その理由は「誰かが誰かと出会うこと、誰かを好きになることには、実際には理由なんてないからです」と出てきたw

いや、それはそうかもしれないけど、時代を超えて誰かと入れ替わることには、理由くらいあってくれ。

もっとひどいのは、「天気の子」である。陽菜さんは、不思議な力をもった鳥居をくぐったことで、「空とつながった」=晴れ女の力を手に入れたという経緯がある。一方、帆高はというと、無害そうに見えて、家出というには大規模すぎる家出をし、しかもその理由も大した動機がなく、たまたま拾った拳銃を乱発する、一般人というにはやばすぎるぶっ飛びBoy(あえてBBと呼ばせていただこう)。BBは、健気な陽菜さんがついた小さな嘘(年齢)すら見抜けず、悪意なくお天気ビジネスをそそのかし彼女に負荷をかけ、最終的に都民を見捨てて陽菜さんを選ぶというセンターオブジアース。

いや、見知らぬ大勢の命より、好きな女を助けたいんだ、というマインド自体は普通にわかるんだけど、新海監督よ…もう少しBBにいいところ作ってやってくれよ。かっこいいところ作ってやってくれよォォォォ

こんな感じでパワーバランスが毎回女性に偏っていたのがここ最近の新海アニメでした。ていうか、昔から新海監督のアニメは女性のほうがなんか強いんだけども。「ほしのこえ」なんて未成年女子が宇宙で何年も戦わされてますからね。

ここにきて「すずめの戸締まり」は…パワーバランスが完璧だった…

ヒーローである草太さんは、「閉じ師」の技と使命を受け継ぎ、自身の学業と並行しながら全国各地に現れる後ろ戸を閉める旅をする生活を送っている。ヒロインのすずめは、3.11の被災者で、4歳だった当時、常世へ迷いこんだことがある。お互いに扉を閉める能力をもち…物理的・現実的に、お互いにお互いがいなくてはならない理由がある状態で旅が始まる。起承転結の転の部分では、物理的にはお互いが一緒にいる理由がなくなるのだけれど、今度は精神的にお互いが不可欠になっているからこそ、今度はすずめ自身が物語を自ら推し進めることになる。

思うに彼らが出会ったこと自体は運命とかいうよりはただの偶然だったんじゃないか。でも、彼らの旅が始まったことには前述の通り、必然性があるのだ。あとからわかることだが、すずめにはミミズが見えること、初めて扉を閉めるシーンですずめが自らの命を顧みずに飛び出したこと、すずめが地震に対して異常に使命感を燃やすこと、すずめが保護者の元からむしろ離れたがっていること、すずめが自身を要石にしてでも大切な人を守りたいと思ったこと、すべてに理由があるので、つじつま厨のわたしには本当にありがたい。やっぱり物語には、それなりの理由がねえと!!!な!!

 

2:アクションへの挑戦がよい

なんか今回、急にアクション要素入ったよね!?

ミミズという敵役、そしてダイジンという敵役(?)がいて、対立関係になっているのは過去初な気が。これまでの自然災害…彗星衝突には「避難」、洪水には「諦め」という選択肢であったが、今回、地震という災害に対して物理的に立ち向かう設定になっていて、冒険活劇というジャンルになっていたなあと。扉まで爆走して、力技で閉めるという行為自体がアクティブだから、今までの「寝てる間に交換」とか「祈って晴れる」とかに比べて、手に汗握る演出でしたね。

廃墟ということで少しホラーっぽい雰囲気、というか戦闘シーンです!っていう感じが演出されていて、音楽も急に尺八が入ってきたりして、ゲームの『大神』のような和風ファンタジー感もありました。わたしだけかもしれないけど、荻原規子さんのファンタジー小説『空色勾玉』を彷彿とさせる部分もあったなあと(黄泉の国に好きな人を迎えに行くんだよね)。何が言いたいかというと、この方向転換は個人的にはすばらしいと思った。冒険だったよ。冒険。

3:音楽がよい

繰り返しになるんだけど、音楽よかったですよね…。今回参加されている陣内一真さんは、「メタルギアソリッド」シリーズの作曲を担当、以降ゲーム、映画およびアニメの音楽作曲に携わってきた方だとか。ねー、うん。ゲーム音楽だよね。アクション要素があるからこういう方呼んだんだろうね。知らんけど。よかったよね。

で、震災の件

いやあのーわたし本当にびっくりしちゃったんですよ、知らなかったので。

序盤で、親と死別したんだなということ、チカとの会話や絵日記を黒く塗りつぶすインサートで、過去に特別なトラウマがあるらしいことがチラチラと描かれていて。でもわたしどんくさくて、それが3.11だということに全然気が付かなかった。というか実在の震災が新海アニメに出てきたこととかなかったし。

わたし本当〜〜〜〜〜に気がつかなくて、車に乗ったあとも行き先は「7時間以上かかるよ」とかしか言わないから、どこだろう…とか思っていて。宮城だか岩手だかに着いたとき本当にびっくりしたし、絵日記が3月11日から黒塗りになっているシーンを見て、本当に座席から転げ落ちそうになった。ここ数年で一番ギョッとした。急にすずめが、物語の中のキャラクターじゃなくて、現実の被災者として見えて。そこから一気にいろいろなことがつながって、頭の中をぐるぐると駆け巡りましたね。

なぜすずめが、ミミズ退治に当事者意識をもって取り組んでいたかがよくわかった。

「死ぬよりも大切な人のいない世界のほうが怖い」(うろ覚え)

と言い切った理由がわかった。

全部ファンタジーとして見ていたけど、急にそれまでのすずめの声は、実際の被災者の本音だというふうに思えた。

 

極め付けにきついのは、クライマックスでついに、17歳のすずめが4歳のすずめに出会うシーン。序盤よりも長い尺で4歳のすずめを見ることができるのだが「お母さんどこ?」と探すだけでも胸が締め付けられるのに、「お母さんを知りませんか!お母さんもわたしのこと探しているはずなんです!」と泣き叫ぶようすには、過呼吸起こすかと思った。なにせ私の娘も4歳。すずめのように、大切な人に先立たれ、自分だけこの世に残され、癒やされない喪失感を今も抱えている人は多いだろう。一方で、そんなふうに大切な人を孤独の中に残して逝かねばならなかった親たち、いろんな人たちの無念はいかほどか。すずめと娘が重なって、そういう結末だけは絶対にいやだ、絶対にそんなことにはなりたくないと心から思うのだが、実際にそのような状況に置かれた人が何千、何万人といる事実。現実。たしかに、「時間」はある程度は苦しみを和らげる効果もあろうが、自分の一部が欠けたような喪失であろうから、それは12年経とうと、この先何十年経とうと、埋まるものではないだろうと改めて思った。

 

そして、キャッチコピーでもある「行ってきます」の重さ。

 

あの日も、いつものように「ただいま」があるはずだった。

一瞬のうちに「日常」は全て波にさらわれ、12年経つ今も更地のまま。

そして二度と故人の「ただいま」を聞ける日は来ない。

 

なぜそんなことが一瞬で起こりうるのか。

日常のなんと儚いことか。果たしてそんなの日常と呼べるのか。

 

当時わたしは21歳で東京在住だったのだが、激しく家が揺れて食器棚からたくさんの皿がこぼれ落ち、ペットを抱えて外に逃げた。その日からニュースでは信じられないような映像が次々流れ、CMはすべて差し替わり、これは現実なのか非現実なのか…そんな不安な日々を過ごしたのだった。

あのときの足元から日常が崩れ落ちていくような感覚、震災の悲惨さ、壮絶さがフラッシュバックして、ああそうだ、あのときすずめのような子がたくさん生まれたんだ。わたしにはすっかり日常が戻っていたけど、すずめと環さんのように心の傷に蓋をして、かさぶたを剥がさないように慎重に生きている人たちがいる。

 

本当に、終盤のシーンは表現が直接的すぎるんじゃないかと思って背筋が凍るような思いもした。だって、扉の向こうには、建物に乗り上げた船の姿があり、12年経った今も業火に見舞われているんだよ…?それってそのまま、きっと、被災者の心の中だ。彼らの気持ちがわかるなんて口が裂けても言えないけど、あのシーンを見て、少なくともその存在をはっきりと感じた。ハッとして気まずかった。被災者はこの映画を見てどう思うんだろう。わたしだったら、わたしに何かの奇跡が起きて新海監督の才能が憑依したとしても、私の自我が少しでも残っていたらこの作品は出せないと思った。少なくとも、冒頭か予告の段階で注意喚起をすると思う。

 

映画が終わったあと、正直トラウマものだと思って、恐る恐るTwitterで検索してみたけど、「おもしろかった〜」とか「感動した!」みたいなコメントが多く、わたしが大げさなのだろうね。わたしゃとてもじゃないけどあの映画を「感動した」と表現することはできない。相当センセーショナルであった。

 

個人的な考察と感想

ま、まあ一旦震災のことは横に置いておいて、この映画には震災のほかにも、「環さんとすずめの関係」「ダイジンとすずめの関係」「すずめと草太さんの関係」などいろいろな要素が絡んでくる。こうした部分をあーだこーだ考察するのが好きなので少し思うところをメモしていきたいと思う。

1:ダイジンは敵か味方か

ダイジンって序盤、ものすっごく薄気味悪く描かれて、こいつやばい!こいつ悪役!!と思わせたあとに、終盤で急に人間味ある感じに描かれるから、視聴者の心をすごく翻弄しますよね。

 

そもそも猫な上に神ですから、人ならざるもので、共感とは程遠いところにある存在なのは間違いないのだが、草太さんが要石になった経緯を見るに、ダイジンもかつては普通の猫だったのではないかと思われる。しかも子猫。当然、要石になりたくてなったわけじゃないんだろう。なにせ要石を抜かれた瞬間にビャーっと逃走し、寸分の躊躇いもなく草太さんに要石の役割を押し付けてますから。そりゃやだよ。あんなところに何百年も刺されていたらさ。

 

そんな自分を解放して、「うちの子になる?」と言ってくれたすずめの存在。それが、純度100%のダイジンの心を、よからぬ方向へ駆り立ててしまった。言うたら、すずめが一番の悪役ですよこれに関しては。すずめの子になるために、要石の役割をそのへんにいた男に渡しただけ。

結局利害が衝突しているだけで、本人に害意自体はないんですよね。声優の子が小学二年生なので、まさにそれくらいの精神年齢とみなすとよいのかもしれない。年不相応の大きな役割を担わされて、結構かわいそうな子なんだ。そう思って見ていると、精神状態によってふっくらつやつやしたり、痩せ細ってボロボロになったりするのもなんとも悲しい。ダイジンもある意味犠牲者、被害者なのだと思ったら言いようもない悲しさに包まれた。最後に、すずめが椅子を抜こうとするのに加勢するシーンがなんとも言えない。親に認められたくて頑張る子供の姿そのものじゃないか。その先にあるのは自己犠牲なのに。ちょっとあのシーンもつらかったな。ダイジンを傷つけ、意図的でないにせよダイジンに再び要石になる決断をさせた…ダイジンを二度絶望させたことに関しては本当にすずめの罪。

 

すっごいどうでもいいけど、ダイジンの薄気味悪さが、『サマータイムレンダ』のハイネに激似だった。剥き出しの悪意。自分の夢や欲望を叶えるために、あどけなく無邪気に他者を死に追いやる。まじで怖いのよこういう存在。見ながらずっと誰かに似てる…と思っていて、終わってから、ハイネだ!と思いました。同じこと思った人、おらんのか〜?

2:サダイジン憑依の謎

ところでサダイジンが環(たまき)さんに憑依するシーン、今思うとサダイジンからすずめへの攻撃だったんだろうな。いまいちどういうことなのか消化できずにずっと考えていたけど。あのシーンさ、ダイジンがサダイジンを威嚇しているじゃん。でもいとも簡単に首根っこを捕まえられちゃって、シーンが変わったあとはくっついて過ごしているんだよね。思うに、ダイジンとサダイジンは親子的な関係性なんじゃないか。要石という重要な役割を放棄して旅に出てしまったダイジンを追いかけて、諌めているのがサダイジン。

 

ダイジンを追ってきたサイダイジンの構図は、すずめを追ってきた環さんの構図とも重なる。そういえばすずめもダイジンに「うちの子になる?」と誘っているけど、環さんもすずめに「うちの子になろう」と誘ったんだよね。すずめがダイジンを突き放したように、サダイジンも環さんに憑依してすずめを突き放した。まあ…神たるサダイジンは、すずめとダイジンのあらゆることをお見通しだったんだろう。あのときすずめは傷ついて、それでダイジンの気持ちにも気づけたんだろうか。

直後に環さんが気絶するのは、サダイジンの憑依から解放された反動なんだろうけど、ストレス性だとしてもわたしは驚かない。子供が何日も帰らなくて、やっと見つけたら知らない男と被災地へ行きたいと。何が…何が…何があったんだと……わたしならもう、それはもう、動揺しますね。仕事も休んできているわけだし。ストレスだよ。かわいそうに。

 

そういえば道中で双子の世話をするシーンがあったのはそういうことか…あれはすずめが環さんを理解するために必要なシーンだったんだ。実際に育児を一瞬でも体験してみて、環さんが自分を育てる上でどんなふうに苦労して、それでも諦めずに育ててきたこと、どんな思いだったかというのを、すずめがやんわりと感じられるように。最初は、シリアスなシーンとの対比で子供でほのぼのさせてんのかなとか、子煩悩な草太さんの描写を入れて魅力付してんのかなとか思ったんだけど。

すずめが「わたし子供無理かも…」って言うのがまた皮肉が効いているよね。わざと言わせてるよねこのセリフ。環さんはやり遂げたんやで…? それが愛でなくてなんなんや、すずめェ。…ただ環さん、あんた、コブ付きって表現はどうなの。もう少し上品な言い方しなさいよ。コブ付きはあかん。

 

3:すずめの成長ストーリー

芋蔓式だけど、こうして振り返ると思春期のすずめの成長っていうのも明確に描かれていたなと。

すずめは草太さんを失ったあたりから被害者マインドが強く出ていて、助けたいと手を差し伸べる人たちにことごとく冷たく当たっていたのがいかにもティーンエイジャーだった。一人でなんでもできる、そんな勘違いをする時期かもしれない。実際は、環さんも芹沢も、まったく敵なんかじゃないし、すずめが憎んでいたダイジンでさえ、すずめを大事に思って導く存在だったわけで。反抗期と恋愛が入り混じったあれこれなんて、見ているこっちが気まずくなるような感じだったけど、カーステレオと芹澤のキャラをうまく使って中和していたのが、シナリオ技術的にすごすぎる。

最終的に、「さっきひどいこと言ったけどそれだけじゃないから!」的な雑なまとめに「うん!!」みたいな感じで雑に和解していたのはちょっと笑った。壊れた自転車鬼こぎしてたからな…やっぱ運動と太陽光は精神によいんだね。

 

実は環さんの内心についてははっきりと答えがあって、それはサントラに収録の「Tamaki」という曲の歌詞に示されています。

歌詞は検索して見ていただけたらと思うけど、冒頭がいきなり

あなたが嫌いだった

で始まるのね。曲の後半では、「あなたが誇りだった」という歌詞があって、愛憎相剋であることが描かれている曲なんだけど。

わたし自身、子供がいなければ…と思うことは年間に300回くらいあって、子供がいる幸せと、子供がいる窮屈さを何度も何度も、永久にループしているタイプの人間だけど、それにしても開口一番「あなたが嫌いだった」という心情は、しっくり来ないんだよな。ムカつくことも、遠くへ行ってほしいと思うことも、なんなら殴り飛ばしたいこともたくさんあるけど、嫌いという感情では絶対にない。

まあ自分が絶対にないからといってみんなもそうとは言い切れないけど。

環さん自身も、姉という唯一無二の存在を失って、その誰にも理解できない喪失感を、唯一共有している相手がすずめなんだよ。ただの親子や、養子ともまた違う。環さんにとって、これ以上決して失くしてはいけない、最後のかけらがすずめだと思う。

小説版ではもう少し環さんの内心も描かれているらしい。時間を見つけて読みたいと思う。

なんにせよ、この尺の映画ですずめの人間としての成長をうまく入れ込んだのはあっぱれ。前作なんか銃を乱射してましたよ?

 

4:いつの間に相思相愛になったのか

無粋なんですけど。恋に落ちるのに理由なんていらない、それはそうなんですけど。草太さんはいつすずめを好きになったの?っていう考察です。

 

そもそも草太さんがすずめに対して恋愛感情を抱いているかどうかは最後までなんともよくわからない。草太さんの恋愛対象が女性なのかどうかもわたしにはもはやわからない。中性的な方ですし、全体的に浮世離れしていて愛だの恋だの言っているイメージが湧かないというのもある。中盤で「死ぬのは怖い…」みたいな独白シーンで、あっ草太さんも死ぬのは怖いんだ…と思うくらいには人間味がなかった。まあ…考えてみたら物語の序盤から最後の最後までほぼ椅子でしたね、彼。人間味がないのも無理はない。

 

話を戻すと、すずめが草太さんを好きになるのはすごく素直だと思うんですよ。初めて親元を離れて外の世界に飛び出して、危険や秘密を共有するシチュエーションはまさに吊り橋心理になるだろうし、草太さんの使命が地震を未然に防ぐものだという点も、すずめからしたら傾倒するに余りある要素である。そもそもイケメンの設定だし。

恋愛感情かどうかは置いておいても、草太さんがすずめを特別視するに至ったのは彼の独白からも確実で、考えられることとしては、

・閉じ師という特殊な役割の秘密を図らずも共有できた

・死への恐怖を和らげる存在だった

の2点なのかなと。1つ目は、閉じ師という危険かつ多くの人を救う仕事をしていながら、誰にも認知されていないということ。草太さんは、「大事な仕事は人からは見えない方がいいんだ」と言っていますが、草太さんだって人間。承認欲求があるはずです。その役割を認め、尊敬してくれるすずめの存在が大きくなったのかなと。

2つ目は、草太さんに突如訪れた、要石になる(人としての死)という悲しい運命。まあ元はといえばすずめが原因だが…徐々に死へ向かっていることに気づきながら、草太さんは成熟した人間なので、それをすずめには伝えず一人で抱え込んでいて。そんな悲劇の中で、明るく旅をともにしてくれるすずめの存在が、いつしか心の拠り所になったのかも。

草太さんは秘密が多いからどうしても人間関係は内向的にならざるを得ないんだと思う。一人で抱え込むタイプ。だからこそ、割とずけずけ土足で入り込んでくる、芹澤みたいな友人が残る。草太さんのまわりには草太さんを明るく照らす人が相性よいんだろう。

 

…で、恋愛感情なのかなあ。あえて帰りに別の交通手段を取るシーンを入れているのは、どういう意図なんだろうなあ。各地の扉を閉めていくという大義名分こそあったが、あえてあのシーンを入れる意味とは。思うんだけど、君は家に帰りなさいと言いつつ、(でも今椅子だしなあ…やっぱすずめさんに手伝ってもらうしかない…)と結論づけた手前、環さんと同乗するのが極めて気まずかったのかもしれないね。恋愛感情の有無はわからないね。別れ際に「逢いに行くよ、必ず」と言うのが、「逢いに行くよ、ヤックルに乗って!」を彷彿とさせますね。させないか。

まあでもすずめも意外とちゃっかりしているというか、キスしたければしちゃう感じの性格なので、草太さんがはっきりしなくても自然と一緒に。押しかけ女房的な感じで。ニコイチになっている未来は想像できますね。あ〜白米が進む〜

 

5:残る謎

めちゃくちゃ疑問なんですけど、「君の名は。」と「すずめの戸締まり」のビジュアルが激似なのはなぜ?

公式ビジュアルのスクリーンショット

意図的としか思えない。それに「すずめの戸締まり」のビジュアルでは夕暮れと昼の境目に彼らがいて、まるでそこは「君の名は。」でいう片割れ時(黄昏時)のよう。常世と片割れ時は概念が共通しているのかも。他にも考察あったら教えてください。

 

新海アニメを振り返ってみる

ここからは新海監督の元カノ面でちょっと語っちゃいます。ごめんなさい。

新海アニメって昔から男女が想い合いつつ現実のさまざまな要因ですれ違って、結局は別の道をいく…みたいな展開が多かったので、「君の名は。」で最後二人がお互いに振り返って声をかけたシーンでは、おおっと思ったものです。

やっぱり商業・王道は再会はマストなんでしょうね…。

ほしのこえ」では物理的距離・時間的距離・心理的距離のトリプルアタックで隔たれ、最後は電波にも阻まれとうとう二人は出会えない。「雲のむこう、約束の場所」では出会えるんだけど、世界平和を犠牲にしていて、その点「天気の子」に通ずるものがある。

故人を追っていくという意味では「星を追う子ども」と「君の名は。」に共通点があるけど、前者では「喪失を抱えて生きるしかない」という、妥当というか道徳的な結論だが、後者では時空をも飛び越えて、運命は自分たちの手で変えられる!!!という少年ジャンプ的な展開になっている。

お互いに気持ちがあることを認識しながら、別の道を歩み始め、いつか逢いにいく…と心に誓って終わる「言の葉の庭」に対して、実際に会いに行って「おかえり!」まで気持ちよく描かれている「すずめの戸締まり」。

会えない系アニメが会える系アニメに行き着いた。

でも、本当は会えないんですよ。「君の名は。」で会えたのは、片割れどきに時空を超えるという超展開があったからだし、「すずめの戸締まり」では、本来なら辿り着けないはずの常世に、特殊事情で入れたからだし。本当だったら今まで通り、運命に隔たれて二度と交われないはずだった。本当だったら意思の強さだけではどうこうできない、そういう別れのはずだし、世の中にはそういう別れが星の数ほど溢れているという現実と悲哀を、新海監督は昔から描いてきた。

 

わたしたちの人生ってアニメ映画みたいに劇的じゃないし、恋愛事情もおおむねドロドロでこんなふうにキラキラしていることばかりじゃないけど、ふと足を止めると、自分が手放してきたもの、二度と会えない人、伝える機会を失った言葉が信じられないほどたくさんある。新海アニメを見ると必ず思い出すのは、18年前にゲーム友達と、彼のワンルームアパートで徹夜で新海アニメ見たあの夜(※プラトニックです、まじでアニメ見ただけ)。連絡先も知らないし今どうしているのかさっぱりわからないけど、当時の自分には大冒険で、アニメもジブリくらいしか見たことなくて、あの狭い部屋(失礼)の小さいPCの画面で見た鉄塔の風景(雲のむこう〜)が忘れられないわ。もはや名前すら思い出せないけど、あの人も見てんのかな最近の新海アニメ。たしか、大学卒業してどっかの地元に帰ったんじゃなかったか…昔はクラウドなんてなかったから連絡先もさっぱりわからんし、二度と連絡取れないかと思うと急に連絡取りたくなるな…残念ながら本名にいたっては忘れたのではなく知りもしない。

 

まあとにかく一度手放すともう二度と手元に戻ってこないものは多い。だけど自分の人生においてすべての荷物を常に持ち運ぶことはできないのでどうしても取捨選択が生じてくる。新海アニメを見るといつもそんなようなことを思う。

 

気づけば駄文を1万字以上も書いてしまった。誰が見るでもないだろうけど、コメント大歓迎なのでよろしく。笑

 

(ネタバレ注意)『天気の子』を観て宮崎駿って天才だなと思ったはなし

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こんにちは。

新海誠監督の新作劇場アニメ『天気の子』を鑑賞したぞい。

以前『君の名は』を観たときに「鬱になっちまったよ…」というブログを書いたらいろんな方が読んでくださったので、謎の使命感で今回も感想を書きたいと思うよ。

nyoki2.hateblo.jp

 

結論から言うと、本作は個人的にはあまり刺さらなかった。というか感想としては、『君の名は』の劣化版を見た…とすら思った。

 

おもしろいし映像も綺麗だし音楽もよかったしお金を払う価値は十分にあったと思うけど、『君の名は』のストーリー構成の巧みさと比較すると、視聴後の満足感はかなり低かったと言わざるを得ない。

 

加えて、キャラクター設定に不明点が多く、感情移入が非常に困難に感じた。作品が水だとしたらわたしの精神は油なのかと思うほどに自分の中に内容が入ってこなかった。

 

ここからは内容にがっつり触れていくので未視聴の方は絶対にここで引き返していただきたい。

 

 

 

 

 

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よろしいか?

 

 

 

 

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あのねえ、本作とにかく、よくわからない部分があって、

 

それはあの鳥居はなんなのかとか、飛び込めば誰でも天空に行けるのかとか、えっ人柱って辞退できるの…?とか、あのまま東京は滅びるのかとかそういうSF要素の部分じゃなくて

 

(ていうか『君の名は』でもそうだったけど、なんで時を超えて入れ替わるねんとかなんで気づかないねんとかそういう設定のところはとにかく「気にするな!そういうものだから!」で済ませておけば幸せになれると思っているから考えない)

 

 

主人公である帆高くんの人物像が全然理解できなかったんですよ。

 

 

『君の名は』では瀧くんも三葉も(不思議な力で結ばれているとはいえ)いたって普通の高校生だったじゃないですか。クラスに友人がいて、お互いに家族がいて、三葉は特殊な家に育ってるけど、本人の言動自体はいたって普通の女の子でしたよね。

それに比較すると本作のキャラクターにはいまいち人物像を掴みきれないところが多すぎる。

 

 

まず帆高くんさ……そもそもどうして家出した?

最初は気にならなかったというか、相当ひどい家庭環境かなんかで、その裏返しであの天真爛漫な感じだけど実際は底知れぬ闇を抱えてる系なのかなーと思って見てたんだけど、後半で「失踪届が出ている」となって「あ、ちゃんと探してくれる両親なのね」と思ったし、最後なんか大学に進学するらしき描写がありましたよね。保護観察下に置かれた、ある意味不良少年でも彼を信じることを諦めずに東京の大学にやってくれるような両親……絶対よい人じゃない?なんであんな大規模な家出をしたの?

 

新海監督はあえてそこは明示していないって言ってたけど、確かに明示しなくても違和感を感じさせずに終わってくれるならいいんだけど、めっっちゃくちゃ違和感ありました!

 

 

そして銃を拾ったとき……どうして保有しちゃったの?どうして撃っちゃったの?

1回目は千歩譲ってまだいいよ、2回目は恩人である須賀さんに銃を向けるってどういう心理状態なの?ここは本当に理解ができなかったというか、もはや帆高くんが危険因子にしか見えなかった。自分が正しいと思うことのためならテロリズムもいとわないタイプ?

ほかの方のブログに、「ストーリー上、公権力に追われる構造が必要だったんだろう」と考察してあってなるほどと思ったけど、それで結果的にキャラ設定に違和感出るんじゃだめやん。

みんなあれは、「若さだなあ…」で消化できた? 若さを理由に銃乱射してたら日本の治安終わるけど大丈夫?

 

そりゃ銃保有してたら警察は全力で追いかけるよな…ってどちらかというと警察に共感してしまったし、あの状況で「帆高いっけえええ!!!」という気持ちにはなれない!!

あそこまで商業アニメに寄せているならそこは、こちらの気持ちを振り落とさないで連れて行ってくれる構造にしてほしかった…

 

 

ちなみに、結末はよいと思うんですよ。

その他大勢の幸せよりも、目の前の好きな人を選ぶ。それ自体はなんの疑問もなく受け入れられました。人間、誰しも多かれ少なかれそういう選択をしていると思うし。

でも、その過程で拳銃をむけたということは「好きな人を生かすためなら最悪目の前の人を殺してもよいと思った」ということになり、

それって「その他大勢の幸せよりも、目の前の好きな人を選ぶこと」とはまた別だよなあと。

見て見ぬ振りをするだけじゃなく、能動的に排除するとなると。

そうなってくるとやっぱり帆高くんは相当な闇を抱えていないとつじつまが合わないんですよ。

なんだろう、わたしが納得できるとしたら

父が母に暴力を振るい離婚したが母に経済力がなく公権力によって無理やり引き離され、最悪な父親のもとで虐げられている

とか。

それくらいなら、そこまで目的ありき(手段をいとわない)もしくは攻撃的な態度をとるということも腹落ちするというか、「今度こそ!!何が何でも!!この手を離したくないんだぁああ!!」って銃を構えたら、こちらも泣いてしまうかもしれない。

 

 

…とにかく人物に感情移入できないと、どうしてもストーリーに深く入っていくことができない。「置いていかれる」という表現がこれ以上ないくらいぴったりだ。新海監督よ、そこのところどう考えているのだ…?

まあ思うのは、新海監督は過去作品においてストーリー自体は結構あっさりしているんですよね。シンプルというか。それがある意味新海節でもあったと思うんだけど。

うわあこれはストーリーテラーだなあって作品は『君の名は』が初めてだった気がするのでそういう意味では、元に戻ったという感じもありますね。

 

 

次の議題は、スケール感。

これも『君の名は』と比べると、だいぶ控えめに思えました。良し悪しはともかくとして。

 

クライマックスシーンを比較してみたいと思います。

 

【ヒロインとの別離】

天気の子:神隠

君の名は:死別

 

【もう一度会うために…】

天気の子:代々木の鳥居をくぐる

君の名は:飛騨高山まで行き、曖昧な記憶を頼りに場所を割り出し、登山を敢行した上で口噛み酒を飲み、時空を超え、かつ中身も入れ替わる

 

【再会後の展開】

天気の子:手を繋いで落下後、逮捕されるも数年後普通に再会

君の名は:村を救うべく作戦を立て奔走、ヒロインは自らの殻を破り父とともに村を救う、しかしせっかく思いが通じ助かったというのに記憶はどんどん薄れ、誰かを探しているような気持ちだけが残りそして…

 

 

え、比較の仕方に悪意がある?笑

 

いえわたしは天気の子をディスっているのではなく、『君の名は』って神作品だなって言っているんです。

 

 

 

 

あとさ、本作ってヒーローとヒロインのパワーバランスが悪すぎると思いませんか?

 

『君の名は』では、(宮水家という家系に生まれた三葉のほうが特殊性は高いですが、その三葉が選んだ相手が瀧であり、)お互いに「結びの力」を頼りに時空や生死すら超えてつながり、ふたりで協力して村の危機に立ち向かいますよね。この二人の関係性は対等だと感じたんです。

 

その点、本作で特殊能力をもっているのってヒロインである陽菜さんだけで、帆高くんは横で傘をしゃんしゃんやっていただけ。そして陽菜さんだけがみんなの願いを叶えてお空にいってしまった。パニクった帆高くんがしたことは警察からの逃亡と線路への不法侵入と銃の乱射と……っていやいや、社会性の差よ。

 

 

 

いやむしろ、帆高のほうが普通であって、ヒロインが出来過ぎていると言ってもよい。

 

15歳にして、彼女がしばしば見せるのは母親的な立ち振る舞い。凪の母親代わりをしているという設定もあるし、帆高を家に招いて、その場で与えられた材料を小粋にアレンジして調理し振る舞う力量はまさに母親のそれですよね。

 

そもそも18歳と嘘をついたのも、帆高に対して本能的に母性を発揮したんじゃないかなと。

 

 

陽菜はいわば、“ 利他愛の象徴 ”だと思います。文字通り自らの身を犠牲にして、みんなを笑顔にするために、天気にするために消えてしまったのだから。

 

 

そんな彼女に「自分のために生きろ!」と言えたのは帆高が普通だったから(つまり人間は普通は利己愛に生きるものだから)なんだよね。

そしてそういう「普通の人間」が世界を変えることもあるっていうのはひとつのメッセージなのかもわからないですね。

 

 

 

共感できるポイントもたくさんありましたよ。

一番は、

「神様、お願いです、僕たちに何も足さず、何も引かないでください」(うろ覚え)

というもの。

この瞬間がずっと続けばいいのに、と思うことありますよね。でもそんなことは基本的には不可能で。その儚さ、諸行無常さは身に迫るものがありました。

特に未成年のうちは、自分の人生の舵をとることもままならず、もどかしい思いをたくさんしたなあって。自立したいという気持ちがから回っていた当時を思い出してなんだかこそばゆい気持ちになりました。

今なんかへたすると鼻で笑っちゃうけど、穂高が「俺が働くよ!ずっと一緒にいよう!!」って前のめりで陽菜に言うシーンは、彼なりに本気で言っているんですよね。心から。若さってそういうものだったなって。ここはじーんときましたね。

 

 

 

16歳の感情をこんなふうにみずみずしく描写できるのは、新海監督のすごさだと感じます。しかも、もし新海監督がこのお話の20年後を描いたとしたら、穂高くんは平気で「人生そんなに甘いものじゃない…」とか言うと思う(笑)。新海監督は年齢別の感情の引き出しを頭の中に飼っているのかな。普通の人は「いま」以外の感情は忘れちゃうんですけど。

 

 

内包されているテーマも示唆的でした。貧困、搾取、代償…。東京という街で、離島からやってきたある意味真っ白な帆高と、利他愛の象徴的存在である陽菜が身を寄せ合って生き抜こうとする。世の中の不条理ややるせなさと同時に描かれているからこそ、まっすぐな愛がここまで眩く映し出されるのだと思ったし、もちろんそこにある圧倒的な映像美がこの作品を神格化といえるところまで押し上げていると感じた。

 

誰かがツイッターで書いてたけど、スポンサーであろうヤフー知恵袋ではろくな回答がかえってこないし、バニラの宣伝車が走ってるわきでヒロインは売春しそうになってるしで、さわやかなストーリー展開の裏で皮肉が効いていましたよね。

 

 

 

それから凪くんのキャラクターは天才的だった。

THEアニメの登場人物。

状況をほどよく動かして、ほどよく笑いをとる。特に「元カノ」を使って身代わりになってもらうシーンはアニメ的な演出で、この作品がエンタメ作品だと思い出させてくれるよいシーンだった。四葉もそうだったけど、どうもヒロインのきょうだいは重要な役割を担うな。

 

 

なんにせよなんと言うべきか、意図的なのか『君の名は』に似ている部分が多く(ナレーションの「それはまるで…!」は既視感しか呼ばない)、それが新海アニメだから共通点があるのは当たり前でしょと思うかもしれないしそれは否定しないが、

 

このまま行くと、なんかもう「ワイルドスピードシリーズ」みたいなことになりません…?

 

敵と舞台が変わるだけで内容はほぼ同じみたいな。彗星、気象ときたらこのあとは海でしょ?みたいな。

 

でも新海監督って結構視聴者の存在を強く意識した発言が多くみられるから、

「新海アニメを観に行けばこういう作品が見れる」という安心感を与える、ミスチル戦法でいくのかなあ。

 

でもなんか、今後もこのまま中身だけを変えてずっと「なにもかもを凌駕して求め合う男女のまっすぐな愛」というテーマを描き続ける限り、

「『君の名は』と比較すると〜」という言説は永遠に続いてしまいそうだし、正直集大成ともいえる『君の名は』を同じベクトルで超えられるのか?という素朴な疑問が拭えないんですよね。余計なお世話ですけどね本当に。あくまで個人的な感想です。

 

 

その点、「ナウシカ」「ラピュタ」「もののけ姫」「千と千尋」を生み出した宮崎駿氏、やっぱり天才なんだなと思った。女性のたくましさを描いているのは共通しているけど、物語の奥行き、それぞれの目新しさ、キャラクターのカリスマ性など群を抜いていて孤高の存在だなと。

 

 

別に新海監督と宮崎監督を比較したいわけじゃないんだけど、改めてふと思ったっていう、それだけです。

 

 

すっごく急いで書いたのでぐちゃぐちゃですが、今後もちまちま手を加えてそのうち整うようにしていきます。

 

一応誤解のないように書いておきますがわたしは新海監督のファンと言っても差し支えない個人であり、ご本人や作品を貶める意図はまったくありません。くどいようですが、あくまで感想の備忘録です。

読んでくれてありがとうございました。

そして次回作も楽しみに待っています!

 

 

最終更新日 2019/8/1 10:49

 

幸せな家族とはいかなるものか

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今日も、することがないのでブログを書いている。

娘を出産してから早6ヵ月。5ヵ月を過ぎたあたりから一日のタイムスケジュールがおおむね確立され、夜もぐっすり朝まで寝てくれるため、だいぶ手がかからなくなった印象だ。

初めての体験の連続で、出産直後はあんなにてんやわんやだったのに、今では娘を「娘」と言うことや、「お母さん」と呼ばれて反応することにすっかり慣れてしまった。

しかし夫との関係性はそう簡単には、こなれてこない。

彼と(ネトゲで)知り合って2年10ヵ月、初めて会ったときからほぼきっかり2年、付き合ってから1年と4ヵ月、同棲してから1年と3ヵ月、結婚して1年と1ヵ月である。

 

過去に一番長く付き合った人との交際期間は6年弱であったが、「会っている総日数」は果たしてどちらのほうが多いだろうか。6年付き合った彼と、1年3ヵ月ほぼ毎日顔を合わせている夫、どちらのほうがわたしは深く理解できているのだろうか。

 

***

 

最近、「幸せな家族」とはいかなるものか考えている。

笑顔が絶えないとか

お互いを思いやる気持ちがあるとか

記念日を毎年祝うとか

悲しいときは寄り添い、嬉しいときには2倍喜ぶとか

はたまた、それぞれが我慢することなく自分の人生を生きているとか

最近だと契約のような結婚の形もあって、それも幸せな家族をめざしたひとつの形なのかなと思う。

家族の数だけ「幸せの形」は違うのかもしれないが

正直、答えがほしいと思うときがある。

その答えをめざせばよいのだという、単純明快な答えが。

チェックリストがあればなおよい。

「10個中、7個以上にチェックがつけば、あなたたちは幸せです!」

みたいなね。

しかしそういう、固定観念に当て込むような「幸せ」というのは現代においてはそれはもうめちゃくちゃに嫌われているし(たとえば、結婚して子供をもつのが幸せとか)、わたしも別にそういうものを賛美したいわけではないのだが、

深夜にひとり孤独を感じたとき、わたしの幸せってどこにあるんだろうとひとりごちたことも少なくなく、何も考えたくない頭で、誰かにジャッジをくだされたいという気持ちが募るのである。

 

***

 

それはそれとして「幸せ」は、性質としては「新たに手に入れるもの」ではなく「現状から見つけ出すもの」であると考えたほうが本質であることは間違いがない。

冷静に考えてみれば、他者にリストを差し出される間でもなく、今おかれた自分の状況にどのような「幸せ」があるかを考えてみることは簡単だ。

となると、今おかれた自分の状況がどういった側面で幸せと言えるか考えてみようという気になる。

今回検討したいのは「幸せな個人」ではなく「幸せな家族」であるので混同しないよう気をつけなくてはならないが、家族は個人から成るものであるため、さしあたってわたしの状況を確認してみることにする。

 

まず、家族と家がある。特に血を分けた存在というのは、想像以上になんだか自分に力がみなぎる存在で、摩訶不思議である。おそらく、これは世間一般としても幸せ指数は高いほうだろう。

次に、仕事がある。基本中の基本だがありがたいことである。高給でもないがホワイト企業だし、なんと言ってもやりたい仕事につけている。これも恵まれたことだという自覚がある。

そして友人関係も極めて恵まれている。一貫校で小学校〜高校をともに過ごした友人たちとはライフステージが変わっても変わらぬ関係が継続しているし、趣味の友達、バイト時代の友達、大学時代の友達など大事な人を挙げたら両手の指をなん往復する必要があるか…。時に当たり前の存在に思ってしまいそうであるが、彼女たちの寛容さや聡明さには感謝するばかりである。

…と、こう書いているともはや嫌味の域に達してしまいかねないが、前述の通りあくまでこれはわたし個人の状況である。

 

次に、夫について。

やはり、家と家族があること。しかしわたしには、夫がこの項目を「幸せな事象」として認識しているか懐疑的である。というのも夫は若干二十歳。これらを「安定」と捉えるにはいささか若過ぎて、「枷」としての認識が上回っている…可能性は極めて高い。しかし定かではない。とにもかくにも彼のことがよくわからないのだ。

ここは「家族としての幸せ」を検討するに当たっては土台の部分であり、ここが揺らいだ時点でこの話が終了してしまう気もするが、ひとまず続けさせていただく。

次に、仕事もある。しかもわたしから見るとなかなかのホワイトだ。長い目で見たときにどうなのか…というところまでは測りかねるのだが、危険でなく、おおむね定時で帰れる、ボーナスも出るので個人的にはよいと思っている。しかし彼はとにかくやめたいらしい。やりがいが感じられないという。

人生においてかなり長い時間を過ごすことになる職場なので好きにしたらよいと思う一方で、昨年の秋にも同理由で衝動的に仕事をやめており、一カ月以上ニート生活をしていたため、あれの再来は勘弁という気持ちでいる。

友人は気のおけない仲間が何人かいるようだが、結婚を機に東京に出てきてから、以前ほどはきらくに遊べない状況である。

つまり夫にとっては、現況に幸せ要素がどうにも少ないようである。

 

「家族と家と仕事がある」

 

同じ条件のもとでそれを幸せに感じられる妻と、幸せに感じられない夫がいたら、果たしてその家族は「幸せな家族」なのかそうでないのか。

少なくとも数学の世界では+と−をかけると−になる。

 

***

 

 

彼は(わたしにようやく購入を許された)ゲームに夢中で、わたしは毎晩娘を寝かしつけたあと、ひとりでPCに向かったりNetflixを見たりして時間を潰している。そして適当な時間に寝室に向かい、昨日と同じ今日を終え、今日と同じ明日を迎える。

 

大きな不満はあるだろうか。

具体的に、こうなればよいのにという願望はあるだろうか。

いや、ない。

ないというか、「あると言うほどはない」というか。

わたしと彼はあきらかに凸凹で、いくつかのことを補い合えるけれども、肝心なところにぽっかりと溝が空いているように思える。

 

 

 

 

わたしは幸せな個人である。

 

 

 

しかし、幸せな家族だろうか。

英語面接の思い出

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これまでに英語面接を3回受けたことがあるんですけど、それぞれがすごく深く記憶に刻まれているのでちょっと書いてみようかな。

何か書きたいなあと思って苦し紛れにこの題材を選んだだけなので、特に有益な情報はないと思うんですけど、ただの思い出ね。

 

英語面接って、受ける機会がある人とない人はぱっくり分かれそうだけど、外資系ではなかなか避けては通れないですよね。

わたしはインターンシップで一回、就活で一回、転職活動で一回受けました。

自分のスペックとしては

・海外留学経験なし
・英文系の学部を出ているわけではない
・もちろん両親ともに日本人
・幼少期から英語教育を受けていて…とかもなし

何が言いたいかというと、わたしの英語力は完全に受験英語だけで培ったものなので、コミュニケーション向けの英語は特に訓練する機会がありませんでした。TOEICは机上の勉強だけで900とりました(W・Sは未受験)。

 

CASE1:外資系企業のインターン

特に伏せる必要がないと思うので書くけれども、初めて英語面接を受けたのはアドビのインターンシップでした。そして結論からいうとこれは通過しました。

 

応募への返信がすでに英文メール。一次面接が人事面接で、面接官は人事マネージャー(外国人)と人事担当者(日本人)の2人でした。

日本で働いている以上この外国人の方も日本語は堪能なはずなのですが、面接は普通に英語で始まりました。そして精神的に心の拠り所であったはずの日本人の方ですが、超がつくバイリンガル(わたしからしたら実質ネイティブ)でした。

なんだろう、わたしだけかわからないですけど、外国人相手にたどたどしい英語を披露するより、ほぼネイティブの日本人の前でたどたどしい英語を披露するほうが精神的につらい笑

しかしこの「ネイティブのような日本人」というのはこの先の英語面接で毎回登場したので、外資系にはこういう人たちが働いているのか…という新鮮な驚きに変わりました。

前述の通りわたしはコミュニケーションとしての英語をまったく習得できていないので結構ひどいものがあったと思いますが、オーソドックスな想定問答は回答を作っていったし、おふたりともこちらの英語を一生懸命理解しようというスタンスで話してくださったので、割とつつがなく終わりました。

 

ちなみにこのサマーインターンの内容は、営業チームのアシスタント部でのサポート業務でした。ものすごく平たく言うと雑用です(もちろん悪い意味ではない)。

ボスが外国人なのでそのコミュニケーションのために最低限の英語力が求められていたのかな?多分。

 

二次面接はアシスタント部のマネージャーがいらして、こちらは日本人で日本語面接だったので天国のように感じました笑

ここで2カ月のインターンシップをさせていただき、外資企業の雰囲気を知ることができたのはとても学びになりました。まあなんというか外資系企業は……よく言われることですけど本当にドライです。良くも悪くも。集団ではなくインディビジュアル。合う・合わないはかなり分かれると思いますね。

 

あと最終日に、一年分のCreative Cloudのアカウントをプレゼントしてくれました。これは嬉しいよ。

 

CASE2:日系企業の英語を使うポジションの新卒採用

これほんと思い出したくない(笑)。

広告制作プロダクションであるAOI Pro.です。ポジションはグローバルプロダクションマネージャーで、内容はサイトから引用すると

「グローバルビジネス部」とは、主に外資系クライアント・広告会社等を対象に日常的に外国語を使いながら制作進行管理を行う部署。「制作部」との違いは、制作過程において海外や外国人スタッフとのコミュニケーションを要することです。あらゆる国の文化の違いを理解し、柔軟に対応する能力と高度な英語力(TOEIC900点以上が目安)が求められます。具体的な仕事パターンは3つあります。

①海外スタッフ(監督、カメラマン、キャストなど)を起用する場合に、そのスタッフの提案・契約・アテンドなどの業務を行う。

②日本のスタッフが海外で撮影をする場合、現地のコーディネーターと連携してスタッフをアテンドする。

③海外スタッフが日本で撮影する際のコーディネート業務(手配・調整等)を行う。

こういうもの。これは、一次面接で落ちました。

グループ面接だったのですが、予告なく英語質問が飛んできたので豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔していたと思いますわたし(笑)。

しかも一緒に受けていたみなさんが全員ハーフでまあ堪能なこと! 帰り道に落ち込んでいたらその中のひとりに「でもゆっくりの英語で聞き取りやすかったですよ?」となぐさめられました。いやつらすぎるだろ。

やりたい仕事をするために英語を使うならいいけど、英語を使う仕事がしたいのだったらもっと猛勉強が必要だと理解しました。というかこの2つを混同していたので、別々に考えることができたのはひとつの収穫でした。

 

CASE3:グローバルな事業をおこなう日系企業中途採用

こちらもメールから英文でした。人事は外国人と日本人のふたり体制。

面接官は配属予定部署のボスとマネージャーで、それぞれ外国人と日本人でした。日本人の方も非常に英語が堪能で、ふたりは普通に英語で会話していました。

「面接は英語と日本語でおこなわれます」との案内でしたが、本当にそのまんまで、前半30分が英語で、後半30分が日本語でした。前半はふたりから質問され、後半は日本人の方から質問されました。外国人の方は日本語が得意でないということで、後半のほうはまったく聞いているようすがありませんでした。

英語面接について、用意していた想定問答は大丈夫でしたが、やはり中途採用ということもあり今回はスキルについてや過去作品について少し踏み込んだ質問があり、そういうときは英語がかなり足を引っ張りました。2つくらいの質問については許可をとって日本語で回答させていただいたくらい。

でも本当におふたりとも、しっかり耳をかたむけてくださって、こちらも頑張って伝えようという強い意思を最後までもつことができました…。

もし、「何言ってんだこいつ…?」って顔されたら心折れていたと思います(笑)

この結果はおいおい。

 

英語が堪能でなくても英語面接は受けられる

英語で質問されて英語で答える…。個人的には英検の面接以外こんな機会は全然なくて、毎回本当に心底「どうしよう…」という気持ちで面接に向かいます。

わたしはリスニングがなぜか得意なので、とりあえず何を言っているか、聞かれているかは問題なく理解できるというところが最大の救いです。あとはなんとかして答えるだけです。

どうやって答えるかというと、想定問答です。

面接でよく聞かれる質問リストを日本語で作り、その答えを英語で作っておきます。そしてこれを覚えようとします。

わたしはぶっちゃけ、覚えられないのですが、「覚えようとした」くらいのほうが自然な英語になるので、いつもうろ覚えでいきます(冗談みたいだけど、丸暗記すると本当に朗読みたいになる)。

このときの英作文の切り貼りで、質問の7割くらいには答えられます。

残りの3割はもう気合いで乗り切ります。

もし質問の意味がわからなかったら"Sorry, I coudn't understand."とか、うまく説明できない!と思ったら"Could I answer in Japanese? I'm afraid but it's very difficult for me to explain in English."とか、さっさと言ってしまったほうがよいと思います。しどろもどろになっている時間に面接官と自分の間に流れる空気は本当にしんどいです(笑)。

 

ちなみに、3回の面接のうち2回で"How did you study English?"と聞かれました。わたしがしどろもどろすぎるせいか、よくある質問なのかわかりませんが、"By myself"と答えると必ず"Wow, nice!"的な、フレンドリーなリアクションをもらえます。

よくも悪くも「どうりでたどたどしいと思った」という感想を与えているとは思うのですが、「自助努力できる人なんだな」という印象もまた与えられているのではないかな?と思います。多分…

 

演奏もそうですけど、自信がなくても堂々としていることが肝要だなと思います。結構小心者なので始まるまではめちゃくちゃドキドキしているのですが、始まったらもう「ええいままなれ!」精神でニコニコしているようにしています。

英語をメインで使う仕事の場合はシビアに英語力が見られると思いますが、「業務自体に英語は関係ないが会社都合で英語を使う機会がある」くらいのポジションであれば、「最低限のコミュニケーションが英語でとれるか」を確認しているだけにすぎません。

とにかく落ち着いて質問を理解し、返事は簡単な単語をつなげるだけでも「伝えたいことを伝える」ことに注力すればオーケーだと思います。

最後は人懐っこい笑顔で"Thank you very much!"と言っておきましょう。終わりよければすべてよし的な雰囲気にもっていくことができます(本当か)。

 

英語全然自信ないのに英語面接受けることになっちゃたよ…という方の参考になれば。

人間的、あまりに人間的(ただの日記)

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父はなかなか重度の高所恐怖症なのですが、あるときこう言っていました。

「もしスカイツリーのてっぺん(外)に置き去りにされるようなことがあれば、落ちるかもしれないという恐怖のあまり飛び降りる」。

 

大小あれど似たようなケースってたくさんあると思うんです。

彼の気持ちが離れていることに気づいて、自ら振るとか。

試験に受からない気がしてもはや受験をやめるとか。

 

私もすごく臆病な気持ちになるときがあります。

たとえば、もし私が末期のすい臓がんと宣告されたら。死を待つのが怖くて自殺するかもしれない。

それどころか、まだ宣告されていない(今のところ予兆もない)現在においても、いつか末期がんを宣告されたら怖いなという思いから自殺したくなることがあるくらいで。

ほかにも、「もし〜〜〜な事件が起きたら精神的に保たないかもしれない」という起きてもいない不安事項が次々と思い浮かんで恐怖感にとらわれ発狂しそうになるときがある。

 

幸せになればなるほど怖いんです。

かわいくてかわいくて仕方がない愛猫たちの寝顔を見ているだけで、先住猫ががんで苦しみながら亡くなったときのことが思い出されるし

最近結婚やら妊娠やらで守るべきものが一気に増えて、これらを失ったら…という言いようのない漠然とした不安感に襲われます。

 

それがいかに無意味で非生産的なことか、客観的にはこれでもかというほど理解できるのだけれども、こういった不安感はしばしば脳を介さずに直接ハートをピンポンしてくるように感じられる(と言いつつ、それらは全て脳で処理されていることもまた変わりようのない事実だけれど)。

 

妊娠でホルモンバランスが変わっているからか、寒さのせいか、産休という慣れない環境のせいか、どうにも不穏な精神状態。やっぱり家で仕事するのはあんまり向いていないのかも。

少し外のカフェで仕事してきます。