それでも恋するノリコ

恋愛ブログではありません!

アラサーの作文

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わたしは文章を読むのが大好きです。

 

文字での笑いって時差ありません?

人のツイートを見て笑うときは、だいたい二回読んだ上で2秒くらい間があって、そこで笑いが脳に到達して声に出たりします。

それがとても楽しいです。

 

他愛のない文章を読むのも好きです。fbにのっている近況報告を読むのも、人のブログを読むのも好き。

 

もちろん小説も大好きです。小説は一番好きです。まねしたい表現がいっぱいあってわくわくするし、おはなしの続きをめくるのも好きです。

 

書くというのは、大変だけれど、なんだかんだ一番身近なクリエイティブだと思います。

料理も、そうだなと思うんだけれど、身近なところにクリエイティブはあるなって。クリエイティブなんて言うと大仰だけど、助詞をひとつ選ぶのも、語尾を考えるのも、どう伝えたいかを考えるのも、「表現」だなと思うわけなんです。

 

まあ、書くのは単純に疲れるので、読むほうが好きです。書くのは、まだまだ未熟だと思い知るばかりでだいたいつらいけど、でもやっぱり好きです。

 

おわり

抑うつ状態で今すぐ死にたい人へ

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なんでこんなこと書くのと言われても、明確な答えは思いつきません。

 

でも今日は、うつ病で自殺を考えている人に、自殺未遂をして精神病棟も紹介された状態を乗り越えなんやかんや社会復帰を果たした私から、ちょっとだけお手紙を書くことにします。

 

ほぼ実名でwebライターをしている今、うつ病の既往歴ってわざわざ書かなくてもいいよね、むしろやめとこうという題材ではありますが

 

もういいんだよそういうことは。ええい、ままなれ

 

さて、さかのぼること7年。

当時二十歳だったわたしは、某医学部の2年生でした。

 

医師の家系に生まれ、幼少期から将来自分は医者になるんだろうなーと思い込みながら育ち、なまじ要領がよかったばっかりにストレートで医学部に入ってしまったわたし。

理想と現実のギャップに、苦しみました。

 

まず、勉強が大変すぎる笑

そもそも受験自体、毎日12時間くらい勉強し、円形脱毛なども経験しつつ最終的に悟り開いて乗り切っているというのに、その受験の直後に、さらに過酷な勉強量が待ち受けてるってこと自体どうかと思うわ。

 

確かに、近い将来誰かの命を預かるわけですし、きちんとした医師になるために人一倍勉強が必要なことは当然理解できます。でも10代後半っていうのは、一応思春期にあたるわけだし、理屈でどうこうできる時期じゃないじゃないですか。

 

もともと好奇心旺盛で、やってみたいこともいろいろあった。でも、超がつく進学校だったから、それら全てトランクにぎゅっと詰め込んで破裂しそうな状態で受験生してたわけなんです。

受験終わったらこのトランクあけて、一枚一枚広げてみるんだって楽しみにしてたのに、いざ進学してみたら、受験勉強の方がはるかに楽だったじゃんと気づく。

 

「夢の詰まったトランクは永遠に封印されて鍵を閉められたんだ、この勉強が一っっっっっっっ生続くんだ…」って思ったら、本当に怖くて。

 

そういうマインドでいたときに、きっかけは恥ずかしすぎて言えないんですけど、なかなか大規模なダークサイド転落事故を起こし、そこから坂道を転がるように状態が悪化。

もうここ(医学部)から逃げ出したい!!限界!!となったときが過去最悪に抑うつ状態だった時期です笑

 

想像に難くないと思いますが、わたしが医学部に入れたのは、両親や家族のこれ以上ないほどのサポートがあったからでした。それは精神的なものもそうですし、当然、金銭面でもそうです。

ほんとに、トータルでいったら数千万…

それを考えたら、医学部をやめるなんて不可能でした。

そこで、すでに極限まで精神が磨耗していたわたしは、「残された選択肢…それは死」と思って(どんだけ短絡的)、ほんとにやらかしてしまうわけですね。

 

。。。

あー生きててよかったあ笑

危ない危ない笑

 

その後紆余曲折あって芸大に受け入れてもらったのですが、最初の2年くらいは精神も割と荒波に揉まれまして、よく軽いノリで「メンヘラ乙ww」みたいに言われていたのですがその度にまあまあ傷ついていました。(そして第二回目もやらかすのですがこの話はもういいや)

 

大人になるとは不思議なもので、今私は27歳なのですが、ここ1、2年はほとんど自死願望があらわれなくなりました。

 

何が劇的に変わったというわけではないので、多分精神が自然と成熟して、もう少し物事を俯瞰的に見れるようになったり、マインドコントロールができるようになってきたのかなと思います。

 

先日「メンヘラは無理をしない」と発言したところ、すこし反響があったのですが、これは自分の経験から言えることで、

「精神がこれくらいの状態になったら私は死を選んでしまう」という過去の事例から逆算して、

・ここまでつらいことはしない

・ここまでつらくなったら逃げ出す

という線引きができるようになったんです。

 

たとえば、世の中にはブラック企業で心身ともに磨耗して自殺を選んでしまう方がいますね。多分そういったニュースを見ている人はこう思うと思います。

「死ぬほどつらかったなら、どうして会社やめなかったんだろう…」

 

まあ、やめれないですよね。

心身が磨耗すると判断力が鈍るんですよ。最終的にはもうわけがわからなくなって、わけがわからないまま線路などに吸い込まれているものと思われます。

 

自殺って、すこしでも判断能力が残ってたら、こわくてなかなかできないですよ。大きな電車がすごいスピードでホームに滑り込んできて、そこに飛び込めますか?飛び込めないでしょ普通。

 

私の提案はこうです。

判断能力があるうちにやめましょう。

 

会社だけじゃないです、あなたが死を考えている原因、取り除けるのであれば取り除きましょう。判断できるうちに。

 

それはもしかしたら浮気を繰り返す彼氏かもしれないし、うまくいかない家族関係かもしれないし、具体的になにかは人それぞれだけど、この世に取り除けない原因ってそうそうないです。

 

会社やめるとかも含めて、ちょっとやそっとじゃ取り除けないものはあると思いますけど、そもそも冷静に考えればあなたが直面している選択肢は「取り除くか」「死ぬか」の二択であり、

それで後者になることってあります?

 

会社の例ばかりで恐縮ですが(他意はない)、たとえば会社をやめたいとするでしょ。まわりに相談すると、みんなもう少し頑張ってみろと言う。たまに田舎に帰れば両親も、無邪気に「立派な仕事についてくれて鼻が高いわ✨」なんて言ってくる。

 

やっぱりやめれないってなりますよね。だいたい次の仕事見つかるか不安だし生活もどうなるか…って思いますよね。

でも「次の仕事見つかるか」どうかの心配って、生きていること前提の心配ですよね。

もう死のうという決意を固めかけている人が次の仕事の心配する必要ないですよね。

 

しかもあなたが死んだらまわりの人も家族もこう言いますよ。

「そこまで悩んでいたならどうしてやめなかったのか……」

 

お前らだよってなりますよね。

 

でもそれってやっぱり違う。自分を守れるのは自分だけです。まわりが手を差し伸べてくれると思ったら大間違い。

家族ですら精神までは守れない。これは本当に肝に銘じてほしい。

誰かに助けてもらおうと思っても無駄。どんなに親や友達から愛されてても、精神は誰にも踏み込めない域なんですよ。だから自分の精神は自分で守ってください。

死ぬ覚悟があるなら他の方法も絶対ある。

精神が死ぬと肉体も死ぬ。まずは精神を守ってほしいと思います。

 

一時期わたしは、精神が弱いというのは本当に人としてものすごい欠陥なんだ、社会性に関わる大問題なんだと思っていたのですが、

 

そう思っていても弱いものは弱くてしょうがないんでこれはもうハンディキャップというか、個性なんだと思うようにしています(開き直り)

 

生まれつき背が低いとか、血液型とか、そういう先天的な要素のひとつとして、「メンヘラ気味」っていうのがあるってことにして割り切りました。

 

だってもうしょうがないものはしょうがないんだもん。もうしょうがなくない!?(頭悪そう)

 

死を選ぶくらいだったら、いっそメンヘラな自分を許して受け入れて余生をまっとうしたほうがいいんじゃないのかって。ね、建設的でしょ。

 

だからもう、基本は生きているだけでほめられたいです。でも誰もほめてくれないので、日々自分でほめてます。

 

みんなも、あんまり自分を責めないで、たまには生存していることをほめてあげてくださいね。

 

 

でもこんなこと言っていいのかわからないけど、ほんとにほんとにもう無理って思ったら、死んじゃってもいいと私は思ってます。

そういうふうに考えるだけで、少し気がらくになりますよ。

とりあえず仕事やめて、それでも無理だったら死のうとか、そういう考え方は意外と心軽くします。

 

きっとなんとかなりますから、10年後のことじゃなくて明日の自分の精神を守る方向性で行動を起こしてくださいね。

 

お互い、がんばりましょう。

谷を愛する

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ご無沙汰!

ライターをしているというと、ご自身のブログとかもあるんですか?と聞いてくださる方がいるんですが、「ありません」と即答しています。

ここは、一応ブログなんですけど、「ライターのやっているブログ」というとはあちゅうさんやイケハヤさんのように毎日更新される、仕事に直結するようなものを想定されていると思うので、ありませんということで相違ないかと思います。

ここは別名、チラ裏なので。

 

今日も近況をたらたらと。

フリーランスになってからすごく忙しくて、働いている時間だけ見たら明らかに会社員時代より働いています。で、疲れていて、時折精神もくたくたになります。

その状態をですね、「繁盛している」というふうにとらえて素直に喜べれば、それも嬉しい悲鳴ということでまあ良いんですが、「自分がどんくさいからこうなるんだ」という自責モードに入ってしまうと結構しんどくてですね。

 

でもこれってとらえ方の問題で「忙しくて疲れている」という事実は事実なのでそこを解決していくしかない。それは仕事を多少絞るという選択肢でもいいし、睡眠時間や食事を整えてメンタル力を鍛えるという選択肢でもいいし、解決に向けてなにかしないとただただ疲れているだけなんですよね。

こうして仕事とは関係ない文章を書くのも、かなり気晴らしになります。今日、一個大きいものを納品したので、割と気持ちは落ち着いています✨

 

最近悟ったんですけど、精神っていうのは傷つくものなんだなと。

 

ずっと、「楽して生きる」のがテーマでした。割と器用な方なので8割の努力でずっとやってきたし、本当につらいことからはすぐに逃げてきました。

そのスタンスは今も変わらないし多分これからも変わらないけど、その上で思ったのは、そういう生き方を選んでもやっぱり楽には生きられないという現実…笑

とにかく精神衛生を保つことばかり考えて生きているんですけど、やっぱり100パーセントいつも楽しいとかラクとかってことは起こりえない。どんな仕事も、絶対につらい側面があるし絶対に楽に稼ぐとかできない。人間関係も同じで、どんなに器用に立ち回ったって困難が訪れるときは訪れるし、恋愛だって正解なんてものはどこにもない。

 

芸大時代、たいした技能はないですけど作曲を専攻していて、ほんとに生みの苦しみってやだなって思ったんですよ。作品を「作らないといけない」というプレッシャーが本当に負担で(じゃあなぜ専攻したのか✋)、生みの苦しみを味わわなくていい仕事につきたいと心底思ったものです。

なので正直ライターとかも毎日文章書くの無理ってほんとに思ってた。文章書くの得意だけど、たまにでいいんだよたまにで。毎日何千文字も書くなんてつらいんだよ。普通に。しかし成り行きでライターとなってしまった。案の定もう何も考えたくないとか筆が進まなすぎる日とか、無知なジャンルについて書くことになって苦しむとか締め切りに追いかけられるとか本当いろいろある。もっと楽な仕事あったらいいなとか思ったりした。

でも2年毎日書き続けてようやくその苦しみも仕事の一部として受け入れられるようになってきた気がする。(諦めとも言う)

 

毎日ってあっという間に過ぎ去っていきますよね。つらい日も楽しい日もあっという間に過ぎ去っていく。今日つらくても、明日つらいとは限らないし、明日楽しくても、あさって楽しいとは限らない。人間ってナマモノだし、毎日が100点の日にはなりっこない。本当につらくて仕事やめたい、なにもかも投げ出したいと思うときはあるけど、そのあとたくさんの人に読んでもらえたり良かったと言ってもらえたりするとトントンになったりする。

 

私、人生山あり谷ありって言葉があんまり好きじゃなくて。つらいつらいってなってるときに、「人生は山あり谷ありだよ」とか言われると、「それは一応知識としては知ってる」ってなるじゃないですか。てかそれは、あとから振り返ったときに結果的に「谷もあれば山もあったな」って思うものであって、「今、谷だからこの先山があるだろう」っていうのとは違うじゃないですか。しかもその理論でいったら山フェーズのとき大変ですよ。「今楽しいけどこれから谷フェーズくるに違いないgkbr…」とかいやだわ笑

 

なので、人生山あり谷ありは80歳になったら言いたい。

今は、谷にいても、目の前の谷を愛するしかなくて、いつか来る山を夢見たりはしないのさ。

 

いやー我ながらいいこと書くな!

伝える文章講座② 書き始める前のTo Do

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はいどうも。

前回は伝える文章講座ということでライティングの心意気、「おもてなしの心」についてお話させていただきました。

 

っていうこの前回の振り返りのようなものも、初めてこのブログを見てくださった方や、前回のエントリーを見ていらっしゃらない方にも、どのような趣旨と流れでこのエントリーが存在しているのかということを知っていただくために書いているんです。これもおもてなしの一言で説明がつくと思うので、ぜひみなさんも実践してください。

 

もちろん、リンクをつけるんですよ。

新宿駅で、丸の内線はこっちって矢印をたどっていけば丸の内線にたどり着くという便利さを当たり前に享受している現代日本人に対して、リンクを欠かすということは喧嘩を売っているに等しい行為だと言っても過言ではありません。

 

…と、このように一見関係ない例を引き合いに出して少しでも「面白いな」「なるほどね」と読者の興味を引くよう工夫するのも一種のおもてなし技法といえます。芋づる式で色々言えてしまう。

 

さて今回のトピックは、ライティングの前にやっていただきたいことです。

(念のため補足しますが、私はライティングの訓練をこれといって受けたこともなく、ノウハウを確立しているわけでもなく、あくまで自身の考えるライティングテクニックというのを言語化してみようという試みのなかにいるのであって、このハウツーを誰かに押し付けようとか、これが最高の方法だというような考えは持っておりません。ちなみにこういった"逃げの"注意書きはメディアでは「個人の見解です」とか「2016年○月○日現在の情報です」のような形で現れます)

 

まず全体の流れですが、

  1. 読者層の仮定
  2. ゆるいプロット作成
  3. 見直し

となっております。

(このように目次を入れるのも、最初に読み手に全体像を見せることで、その後の理解がスムーズになるであろうというおもてなし。また、ここで読み手はその記事を読むかどうか判断できる=読者が無駄な時間を使わなくて済む、という親切設計でもある)

 

1.読者層の仮定

まず読者層の仮定ですが、これはなにかというと、「誰に読んでもらいたいか」を最初に決めるということです。

たとえば、今私が書いている「伝える文章講座」では、想定している読者は

「文章を書くのが好き、もしくは興味があるけれどどのように書いたらいいのかわからない人」

です。これくらい具体的で良いです。

これくらい具体的でないと、どういう風に文章を書き進めていけばいいのかわからなくなります。

もし、想定している読者が

「文章がうまくなりたい人」

という大雑把なものだったらどうなるでしょうか。

小学生が読んでも役に立って、ブロガーが読んでも役に立って、プロのライターが読んでも役に立つ…そんな情報が書けたらそれに越したことはないのですが、たとえば小学生に対して「読者層の仮定!」なんて言ったら的外れな気がしますし、プロのライターに対して「読者層の仮定!」と言ったら初歩的すぎてまあまあ失礼です。

そう考えると、結局どこからどこまで書けばいいのかわからなくなる。読者層を決めずに文章を書き始めることは、「誰に渡すかは決めてませんが喜ばれそうなプレゼントを買ってきてください」と言われるくらい無茶な話なのです。

 

実際は、誰が読むかわかりません。むしろ想定した読者じゃない人以外の人のほうが多く読む可能性の方が高いです。ですがそこは問題ではありません。大勢をもやもやさせるより、ターゲットを満足させることの方が重要です。

 

逆に、読者を最初に仮定できれば、相手が求めていることは何か推測することができます。相手が欲しい情報を、お出しする。それがおもてなしであり、相手のかゆいところに手が届けば、「また(読みに)来よう」と思っていただける可能性も高まるというわけなんです。

 

2.ゆるいプロット作成

次に、ゆるいプロット作成です。プロットというのは、文章の流れ(構想)や、言い換えてしまえば起承転結のこと。文章を書き始める前に、大まかな流れを頭に描いておきましょうということです。

改めて考えてみたらライター仲間とプロットの書き方についてなど意見を交わしたことがないので、他の方がどのように書いているのか存じ上げないのですが、

個人的にはゆる〜〜いプロットを作ることを推奨していきたいと思います。

理由は、単純に、気が変わるかもしれないから。

書いているうちに、ここはもっと盛り込みたい、ここは思ったより膨らまなかった、といったように予定がかわることは日常茶飯事なので、プロットはやんわり組んでおくくらいのほうが、臨機応変に対応できるかなと。

 

今回のエントリーでは、私のプロットはこんな感じです。

 

タイトル案:文章を書き始める前のTo doとは

  1. 読者層の仮定
  2. ゆるいプロット作成
  3. 見直し(お茶を濁していないか、言いたいことがぶれていないか、内容に齟齬がないか、予定した着地点に着地しているか)

 

ほとんどさっきの目次のまんまじゃん!ていう。

プロットはだいたい、その記事の核となる部分だけ決まっていれば良いと思います。目次って読者のためだけでなく、最初は自分のために生まれてたんですね〜。

 

3.見直し

待って、今気づいたけど見直しって書き始める前のTo Doじゃないじゃん。

めっちゃ書き終わったあとのTo Doですよね……。

 

…っていうね、

見直しの3か条

  1. お茶を濁していないか
  2. 言いたいことがぶれていないか、内容に齟齬(そご)がないか
  3. 予定した着地点に着地しているか

の2にまさに該当する事故が起きました。

すごいテクニカルに伏線を回収した技巧記事みたいになってますが(なってないか)、普通に素で間違えただけです。

 

本来であれば、「タイトルと内容がちぐはぐになっている!」と気づいたらタイトルか内容を変える必要があるわけなんです。

今回でいうと、この「見直し」という工程はとってもお伝えしたい内容なので、タイトルを変えることになると思います。

そうですね…思い切って「伝える文章講座② テクニック編」くらいにした方がかえって面白そうに見えるかもしれません。それか「伝える文章講座② たった3つのTo Do」とか。

タイトルについては次回のエントリーで書きたいのですが本当に難しくてですね。タイトリングだけを勉強するライター講座などもあるくらいなんです。

 

残りの2か条についても補足します。

まず1のお茶を濁していないか、ですが、これは曖昧な表現は避けましょうということです。

たとえがぶっとんでますけどたとえば政治家が街頭演説で「世の中のためになるいろんなことをしていきます!」とか言ってたら「いやどんなことをするのか説明してくれよ!」ってなりますよね。

わたしたちは(というか少なくとも私は)政治家でもないし本来発言力のある人間でもないので、発言がふんわり無責任でもさほど問題ではないように思われますが、それがひとたびメディアでの発言となると、読み手の目は一気にシビアになります。

 

たとえば「文章 書き方」と検索して、このエントリーにたどり着いたとします。ここに、「文章の書き方についてはたくさんの良い書籍が出ているので調べてみてくださいね〜!」と一言書いてあったらどうでしょう。

 

がっかりしませんか?

 

文章の書き方が知りたくてたどりついたのに、文章の書き方を知ることができなかった。しかも、書籍名やリンクが貼ってあるならまだしも、それすらもなかったとなれば…

このブログは「情報の質が低いからもう来ない!」という烙印を押されてしまうわけです。

個人ブログならまだ良いですが、メディアでそれをやってしまうと読者はもう来てくれません。というわけで、曖昧な表現は極力避けるようにします。

 

と、ここまで明言したあとに言うのもなんですが、実は、逆に曖昧な表現を使うべきときもあります。

いわゆる炎上防止のためです。

ちょっと過激な表現をするときや、意見が分かれそうなことについて言及する際に、「〜といえるかもしれません」「〜という可能性も否定できませんが」「〜といえないこともない」のようにオブラートに包むときがあります。

これは保険といいますか、やはりメディアの発言力というのを考えたときに明言を避けておきたいときに使うもので、まあ…大人の礼儀作法のようなものです…。

 

なので、"意見"についてはお茶を濁すこともあるけれど、"情報"については曖昧な表現をしない! というふうに意識してくださいませ。

 

最後のひとつ、予定した着地点に着地しているか。

みなさんは、お友達と話していて、何気なく話し始めたことを一生懸命話しているうちに、気づいたら話しのオチが全然関係ないところにいってしまった、という経験はありませんか?

無計画に飛び立つと、ゴールを見失って見知らぬ土地に不時着してしまう現象は会話でも作文でもよく起きる事故です。

これは、さきほど最初に作ってくださいねと言った「プロット」があればおおかた回避できる現象なのですが、それでもやっぱりよくよく読むと若干ずれた着地をしているということが、まま起きます。

 

たとえばこんな作文です。

 

タイトル:私が猫を好きな理由

起)私は猫を7年前から飼っていて、楽しいときもつらいときも、家族同然にたくさんの時間を共有してきました。

承)気まぐれなところや、付かず離れずいつもそばにいるところ、遊ぶときのやんちゃな表情や、寝ているときの猫とは思えない無防備さが好きです。

転)でも、たまに喧嘩をするときもあります。遊びのつもりだとわかっていても、しつこく噛み付かれたり眠いときに起こされたりするとイライラすることもあります。でも、けんかするほど意思疎通がとれているということなので、それはやっぱり嬉しいことと言えるのかもしれません。

結)やっぱり私は猫が大好きです。とにかく長生きしてほしいので、最近は食事やおやつにもこだわるようになりました。

 

 

気づきますでしょうか。

結の部分でさりげなく別のトピックが始まってしまっています。この作文のテーマは「私が猫を好きな理由」だったはずなのに、最後は理由ではなく「猫を好きな結果こうなった」という若干違う話題へ静かに移行してしまっています。

まとめの段落でさりげなく違うところに着地するというのはとってもよく起きます。

正直プロのライターでもたまに見かけるくらいです…もっと小さい事故ですが。

これが起きる理由は明白で、気を張って本文を書いたあと「よーしもうまとめだ〜✨」と思って気が抜けているんですね。(多分)

 

とにかく、書き終わったら、読み直す。もっと余裕があれば、翌日読み直すとさらに良いです。その一手間で、文章の精度をぐっと高めることができると思います。

 

長くなってしまってすみません。

次回はタイトリングについて書きたいと思います。

タイトルがPV数を左右するといっても過言ではないくらいタイトル付けは重要なのですが、内容と乖離(かいり)してはいけないという絶対的なルールがあります。

映画だって、予告編がすごく面白そうだったのに本編を見たら全然予告編でイメージしてたものと違った…となるとなんだか騙されたような気分になると思うのですがそれと同じことです。

しかしタイトリングは本当に奥が深いので私が何か言うのは本当にリスキーというか自分でもどうかと思うのですが…、たとえ付け焼き刃でもいくつか本当に重要だと思う点はピックアップしてお伝えできたらいいなと思っています。(願望)

 

では。

ノリコ・ニョキニョキ

 

クラシック特化WebメディアCOSMUSICA(コスムジカ)遊びにきてね⬇️

伝える文章講座① 合言葉はおもてなし

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こんばんは。

私のような駆け出しのライターがこのようなエントリーを書くのは大変おこがましく恐縮ではありますが、

僭越ながら先日自身で立ち上げたCOSMUSICA(コスムジカ)というクラシック音楽特化ウェブメディアを運営していくなかで、私なりの(メディアにおける)ライティングのノウハウというのを少しずつ言語化していこうと思い立ちまして、それはまだ試みの段階ではありますがまずは始めてみます。

書くことは好きだけれど、もしくは興味があるけれど、どうアプローチしたらいいのかよくわからないという方にむけてのエントリーです。

本当に私なんかがすみません。

 

テクニック的なところは編集でなんとかなっちゃうので割愛するとして、とにかく最初にお伝えしたいのはライティングの心意気のような部分です。

 

ライティングに必要なもの…それは「おもてなしの心」だと思います。

 

自分のブログであれば自由表現でよくて、むしろ我を貫いたり持論を展開するのがおもしろみだと思うのですが、メディアにおいては「私の書いたものを読んで!」「教えてあげてる!」というスタンスでは誰も読んでくれません。

たとえば、

「〜〜については公式サイトをごらんください!」

と書いてあってリンクがなかったら…

不親切ですよね。

 

読みにきてくれている人をもてなす、それがライターの義務だと思っていて。

 

描写がわかりやすくなるように写真を入れたり、文章が長すぎたら改行したり、わかりやすく小見出しを入れたりという構造的な部分もおもてなしですし、

続きを読みたくなるような導入文を書いたり、読み手のニーズに沿った切り口を考えたりするのはお客様(読者)を楽しませるためのおもてなしです。

誤字脱字をなくすとか、誤った情報を書かない、といったことはおもてなし云々以前にお客様に失礼なことをしない、という最低条件なのですが、そこの重要性というのは案外改めて意識している方は少ないようです。

 

文章を書いたら、絶対に最初から最後まで通して読んでみてください。

流し読みではなく、割と真剣に読みます。

すると、「なんだかここ読みにくい」「ここの意図が伝わりにくい」「ここは図解を入れた方がいい」という発見が1000パーセントの確率で現れます。

 

色々とトラブルシューティングがあります。たとえば、

なんだかここ読みにくい→「を」や「の」が続いているといった助詞問題だったり、文章が長すぎたり、読点の位置が悪かったり、言いたいことが不明瞭だったりという技術的な問題であることが多いです。手を入れられそうだったら入れてみて、もしお手上げだったら編集さんにパスしてください。

ここの意図が伝わりにくい→書いた本人ですらそう思うのであれば初見の読者には絶対に伝わりません。言い方を平易にする、文章を2文に分けてみる、といった対策のほかに、余力があれば、自分が本当に何も知らない読者だったらどういう情報が欲しいかというのを客観的に考えてみて、必要な補足情報を考えたり、説明をあと一歩深くするなどを試してください。

ここは図解を入れた方がいい→残念ながら、めんどくさいなあと思うことは大抵やった方がいいことです。あと人名を出すときはフルネーム、など曖昧性を回避することも重要です。写真も妥協せずに探し、リンクなども基本的には絶対に貼っていきます。

 

とにかく合言葉は「おもてなしの心」です。

それを意識するだけで絶対に文章は変わると思います。

まずはそこから、よろしくお願いいたします。

 

次回は、書き始める前にするべきことを解説します。

・読者層の仮定

・ゆるいプロット作成

・見直しのコツ(お茶を濁していないか、言いたいことがぶれていないか、予定した着地点に着地しているか)

 

次の記事で詳しくお話します〜!(っていうこれがもう自分用のプロットなんですけど)

 

ノリコ・ニョキニョキ

 

コスムジカ遊びにきてね⬇️

cosmusica.net

TOEIC900点をとる方法(脳筋法)

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完全にアクセス狙いにいっていてすいません。

 

よくどうやったらTOEIC900点とれるの?と聞かれるので
誘導用に書いておくことにします。

 

 

純ジャパニーズ(通称純ジャパ)がTOEIC900をとる方法。一言で言うと「勉強する」。

勉強法はいわゆる脳筋。ごり押しです。正直、量です。時間です。

 

英語の学習法って検索し始めると本当にキリがなくて

「勉強法の勉強」に時間をとられてるくらいなら単語1つでも多く覚えた方がいいのでまずはグーグルを閉じてください。

(でもこのブログは閉じないでください👼)

 

 

まず勉強を始める際に、ご自身の点数はどれくらいでしょうか?

受けたことがないという人は、まず公式テキストを時間内に解いてみてください。

 

 

 

ちなみに私の900点の内訳は

L:495(満点) R:405

とかなり偏りがあり、勉強法もちょっと極端なので話半分に聞いてください。

 

 

ここからは少し分類して書いていきます。(基本的に雑です。)

 

 

🌸トータルスコアが700以上 L>Rの人へ

 

ちなみに私は元が790だったのを2ヶ月の猛勉強で900に押し上げたのですが、

私の場合とにかくリーディングがだめだったので

リスニングの勉強を完全に捨てて勉強時間の8割は単語を覚えました。

受験英語で文法はそれなり身についている、なのにいまひとつ得点が伸びないという人は単語ごり押しで行けると思います。

 

単語の勉強だいぶつまらないんですけど、やんわり覚えるんじゃなくてこれでもかっていうくらい正確に覚えるようにしてください。

 

「あ〜これ知ってる!なんだっけこれは…」←知らないのと一緒です

単語を見た瞬間に条件反射で(1秒以内)日本語訳が言えるようにしてください。

単語の意味たくさんあるけどとりあえず太字のものだけ条件反射で出て来ればいいのでその他の意味は捨ててください。

ニュアンスとか、同じ意味の単語の使い分けとか調べだすと沼なので、限られた時間で勉強する必要がある方は割り切って機械のように覚えていくと良いです。

私はそういうの全てごりごり調べたのでとても楽しかったですよ!総合的にいろんなただし試験後すぐ忘れるというお約束からは逃れられませんでした。

 

単語はこれやってね

 

 

 

🌸トータルスコアが700以上 R>Lの人へ

 

自分がこれじゃないのでなんとも言えないんですが

Rで点数が取れるということは、文法と単語がしっかり身についているということになるので、Lをあげるのはそんなに難しくないと思います。

 

耳を慣らすためになるべく長時間英語を聞いていた方がいいと思うので、通勤通学はポッドキャストでも流し聞いてください。

家ではシャドウイングしてとにかく声に出す。「聞いてわかる」と「言える」の間には案外大きな壁があるので乗り越えましょう!(ちなみに私は乗り越えてないw)

 

声を出せない環境では、書き取りで代用します。

すごい簡単なリスニングでも、前置詞とかまで全部書き取るとなると意外とわからなかったりして発見も多いしクイズみたいで単純に楽しいw

手を動かすので「勉強してる感」もあって精神的にも安定します。

 

ただ書き取りは時間をいたずらに奪うので絶対に30分まで!勉強してる風で気持ち良いからといって長時間やるのは避けてください。

早くお家に帰ってシャドウイングをやりましょう。どう考えても効率的です。

 

リスニングはこれ

 

 

 

🐰トータルスコアが500〜700

 

多いと思います。この層の人。

文法で点数を落としがちな人は、文法をたたきましょう。文法はすぐに上がるので狙い目。

実は文法は出題パターンがかなり決まっており…優良な書籍はうまいことパターンを網羅してくれているんですよね。最低3周してください。3周するまで受験しないでください。

 

 

 

読解で点数落としている人は、前述の単語をやってください!

読解で点数を落とすのはひとえに読むのが遅いから。単語を覚えると読解速度があがるので単語命で。

 

この点数帯で、リスニングの点数が低めの人は、割と長期戦を強いられると思いますので早めにリスニング対策始めると良いかと思います。
リーディングの方は短期決戦できるのですがリスニングは時間かけないと伸びてこないので…

「Part3やPart4で何言ってるんだか正直ほとんどわかんない…」という人は根本的に単語力が足りてないのでリスニングうんぬん以前に単語やってください。

単語は文字面追うのではなく絶対に実際の発音を何度も聞いて脳内で自動再生されるようにしてください。単語流し聞きするだけでもリスニング対策になるのでとにかくずっと垂れ流して欲しいと思います。

 

 

👮トータルスコアが500未満

 

500未満の方がこのタイトルのブログを読んでいるとは考え難いのですが念のため。

TOEICを受けている場合ではありません!

多分英検2級あたりから目指した方がいいと思います。

TOEICは内容がビジネスに偏っていますし、基礎力よりもテクニックで点数を叩き出す「対策命」なシステマティックな試験なので

この点数帯の人が一生懸命対策してちょっとした点数をとっても正直なんにもならないと思います。

 

英検の方がずっと勉強する価値あります。

 

 

 

 

あえてはっきり言いますが予想問題集の類はやらないでください。

過去問命。

 

 

いやいや英検は良いからどうしてもTOEICの対策をしたいという方も、やっぱり文法の見直しは避けられないと思います。

 

  

(正直まあまあだるい教材ですが)気合入れれば1日で読了できるので一旦読んでみましょう。

 

これはデータとしてご紹介するだけですが、

私は大学3年の秋に

1日6時間×6週間で790点が900点になりました。

あんまりよく覚えてないけど確かさぼった日はなかったはず。

精神の起伏が激しいタイプなので泣きながら勉強した日もあります。

ただ、ドMなので「泣きながら英語を勉強しているシチュエーション」は控えめに言っても大好きです。(何を言っているのか)

 

900を目指したきっかけは、「就活に有利だよ〜」と言われたからで、実際どうだったかというとまあまあ有利でした。

ちょっと箔がつくって程度ですけど、

「この2人のどっちにしようかな〜」ってなった時に決め手になってくれる可能性は十分あると思います。

 

あとTOEIC900あると外資とかも応募できます。

ただ応募はできるけど英語面接で無事に死亡します!

悪しからず!

 

 

ではでは頑張ってください!

 

 

母が入院してわかった、「私のまったくわかっていなかったこと」

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事前に断っておきたいのですが割と暗いブログを書きます。
でも、特に今落ち込んでるとか、抑うつ状態ということではないので安心してください!(とか書くと余計こわい)

本当はFBに書きたかったけれど、そちらは母が読んでしまうのでこちらに。

 

母が入院して3週間ほどが経ちました。

「母不在の我が家」が通常運転になってきました。

ありがたいことに父がお手伝いさんを雇ってくれたため、週に3日、洗濯と掃除機かけにきてくれて、私はほぼ毎晩台所に立っています。

思っていた以上に何もかもがスムーズで、家族もある意味会社と同じだなと思いました。一人欠けても生活は問題なく成り立ちます。どうしても埋められないのは、精神的なものだけです。

 

母がいなくなってわかったことは、母がどれだけ偉大だったかということです。「失ってから初めてわかる」なんていうフレーズはこれまでに250回は目にしてきた気がしますが、ここでいう「わかる」は、"知る"ではなく"思い知る"です。意味は変わってしまいますが、「体得」という感覚に似ていると思います。理解ではなく、体得。

 

言葉にすると全て、そりゃそうだ、って感じのことです。

たとえば、家事と仕事の両立。

 

大変だろうなってそりゃわかります。
すごい、本当にいつもありがとう。そう思ってました。

でもいざ自分がやってみると

嘘でしょって思います。言うは易し、行うは難しです。

 

道行く人、ひとりひとりを呼び止めて、この両立がどれだけ大変か小一時間説明してそして褒めてもらいたいくらいの気持ちです。

 

仕事を切り上げて、ごはんを作って。洗い物をしながら、帰宅に合わせて食卓にのせる準備して。あったかい状態で出したいから、何品もあるとすごくばたばたしちゃって、自分の分はすっかり冷めて。やっと席について食べようと思ったら、「ごはんおかわり〜」とか言われたりとかして。

 

おいしいって言ってもらえる時もあれば、これ味薄いねとかおいしくないとか言われる時もあって。

「おいしくない」って言う時の男の人の顔ったらないですよ。

本当に、うんざりだよって感じの顔で、「これおいしくない」って言うんですよ。

まあおいしくないものに対して無理して「おいしい!」とか言ってもらう必要はないんですけど、ああ人ってこんなに不快そうな顔するんだなって。思った。

 

おいしくないって言われたら、ごめんねとしか言いようがないんですよね。いや別に謝らなくていいよ、って言われるんですけど、「おいしくない」に対しては「ごめんね」以外に返事思いつかないですよ。

ごはんを作るのは私の担当ですし、うまくいかなかったという事実は事実。謝ります。

でも、それにしても表情は本当に正直です。

父も人間なんで、「あんまりおいしくないかな」とか「ごめんね、これは残すね」とか言葉はオブラートに包んでくれるんですが、表情がもう不快感をあらわにしていて、それは漫画みたいに露骨に顔をしかめているとかではもちろんないんですけど、ちょっとした変化が、もうちゃんとそれが不快感、嫌悪感、もしくは怒りに近い何かを表しているな…ってわかるんですよ。

もちろん、おいしいって言われるときもあります。毎日が評価の連続。

1時間かけて作った料理はものの15分ほどで消え去り、父がテレビを見ている間私は無言で洗い物をするわけです。

 

念のため明言しますが、全く不満はありません。

父は私に住む家と愛情を与えてくれていて、毎日朝から晩まで働いて私たちを守ってくれています。父が、「今日のお夕飯はなにかな?」という気持ちで家に帰るのが楽しみになったらいいなって思いますし、それをモチベーションにしています。

そしてこういう時だからこそ、わたしたち二人が一緒に食卓につくことに深い意義を感じています。

なので全く不満はありません。

 

ただ、私が思うのは、家事というのは結構孤独だということだけです。

そして何より申し訳なく思うのは、私も母に対して「このお肉あんまりおいしくないね」とか「ごはんが今日は水っぽいね」とか、何の気なしに言っていたことです。

それらは全く悪意なく言っていたものでしたが、その言葉に対して母が言えることは、今の私と同じで「ごめんね」だけで、

その時は「このお肉あんまりおいしくない」という発言は「あくまでお肉の品質に関することで母を責めているわけではない」という理屈でいましたが、今ならわかるのは、

やっぱり自分が手をかけて食卓にのせたものは、「おいしくない」と評価されたらもうそれは絶対的に「おいしくない」のでその理由がなんであれもうごめんねという言葉以外口から出ようがないのです。

 

そして、その食べ物を食卓にのせるために、自分が仕事を早く切り上げる必要があってそれをめっちゃ頑張ったなどということは誰も褒めてくれるわけもないのです。めちゃくちゃ荷物重くて疲れてたけどスーパーに寄ってちゃんと買い出ししてきた、なんてことまでは誰も褒めてくれないのです。私が母のそういうところを褒めてこなかったのと同様に、今後誰にも褒められることはありません。ただ目の前の食べ物がおいしいか、おいしくないか、二つにひとつです。

私は、母に「ごめんね」と言わせてしまったことを今とても悲しく思い返しています。

 

 

もう一つわかったことがあります。

それは、なぜ母親というのはくだらないことをぺちゃくちゃぺちゃくちゃと話しかけてくるのかということです。

 

私が学生だった頃、学校でたくさんの人と話すので、帰宅してからは何も考えずにぼーっとテレビをみたり、携帯をいじったりしたいと思っていました。しかし、母が、大した内容もない話しを本当に延々と話しかけてくるものですから、正直かなりうっとうしいと思っていました。なので、これ以上ないというくらいつれない相槌を打ったり、なんならたまに無視してしまうこともありました。

 

今、私は、日中特に会話する相手もおらず、料理も黙々として、そして父が帰ってくると、ここぞとばかりに本当に他愛のないことをぺちゃくちゃと話しかけてしまいます。私にとっては、父が唯一の話し相手です。でも、父はテレビの音量をあげて、私の話しに興味のないそぶりをします。

 

それもそうだと思います。だって本当に、くだらなくて中身のないことを話しかけてしまうのですから。でもなんで中身がない話しになってしまうかというと、ずっと家にいるからです。びっくりするような、興味をひけるような出来事なんて、何も起きていないからです。

父がテレビの音量をあげたら、私は空気を読んで黙ります。父の考えていることがわかるから。私もそうだったように、父は外の世界で働いて、一日中いろんな話しを聞いて、今は何も考えたくないのです。家では休みたいのです。それがわかるので、私は黙ります。そしてただ、母に悪かったなと思いました。母は、孤独だったと思います。

私なんかはLINEやTwitterで、父以外にもいろいろな人と交流ができるのでいいですけど、母の時代はそうではなかったわけですから。

 

父と結婚して35年ほど、ようやくたった一人、私だけが母の孤独に本当の意味で気づいたと思います。

でも母はいつも笑顔で優しくて、家庭を切り盛りしてくれました。父の仕事も支えました。私を習い事に通わせてくれて、私が病める時も健やかな時も寄り添ってくれました。

 

 

今日も、母のお見舞いに行きました。

ちょうど夕飯が配られる時間だったのですが、遠くから母の姿を認めたとき、うつむいて、静かに、無表情で、ごはんを食べていて、それがすごく、つらかったです。

「母」にとっては一種の職場であったとしても、家庭はやっぱり家庭で、母がいるべき場所は病院ではなく家庭だと思いました。

 

病院の窓から見る外の景色は、なぜだかすごく魅力的に見えます。いつもは目にもとめずに通り過ぎているいろいろなものが、とても綺麗だと思ったりします。

 

母は、早く退院して家に帰りたいと言います。

私も、早くそうなったらいいのにと、思いました。